佐賀女性7人連続殺人事件

1975年08月27日水曜日〜

佐賀女性7人連続殺人事件(さがじょせいななにんれんぞくさつじんじけん)とは、1975年から1989年までに佐賀県で7人の女性が殺された事件。
その内、6人が水曜日に失踪している事から「水曜日の絞殺魔事件」(すいようびのこうさつまじけん)とも呼ばれる。
1989年に3人の女性(5人目から7人目の犠牲者)が遺体で発見された殺人事件は、訴追され「北方事件」(きたがたじけん)と呼ばれている(遺体発見現場が北方町だったため)。
しかし、いずれの事件も無罪判決が出ており、結果的に全て未解決事件となっている(1件目から4件目に関しては、起訴されずに公訴時効が成立)。


概要
1975年から1989年までに、佐賀県北方町、白石町、北茂安町、武雄市の半径20キロの地域で7件もの女性の殺人事件が発生した。
事件の特徴として、以下の点が挙げられている。
被害者女性の失踪が水曜に集中していること(7件中、6件)
夕方から夜にかけて失踪していること
5件の死因が絞殺であったこと(残り2件は、白骨化しており死因が不明)
4件目までは、捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立。
残りの3件は起訴されたものの裁判で無罪が確定したため、7件とも未解決事件となった。
なお北茂安町は、中原町とともに2005年3月に三根町と合併し、みやき町となっている。
また、北方町も2006年3月に武雄市と合併(編入)している。
7人の女性の失踪・発見の詳細
1975年8月27日(水)、北方町に住む当時中学1年生であった Y(当時12歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。
1980年6月27日に白石町の小学校プール横トイレの便槽の中で遺体で発見された。
1980年4月12日(土)、白石町に住む H(当時20歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。
約2ヶ月後の6月24日、町内にある小学校の便槽から遺体で発見された。
本件のみ、水曜日ではない。
1981年10月7日(水)、白石町に住む近くの工場の従業員であった I(当時27歳)が失踪。
同月21日に中原町の空き地で絞殺遺体で発見された。
1982年2月17日(水)、北茂安町の小学5年生 A(当時11歳)が下校途中に何者かに首を絞められ殺害され、翌日に絞殺遺体で発見された。
1987年7月8日(水)、武雄市の飲食店従業員 H(当時48歳)が失踪、1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体で発見された。
以下の2件の遺体も同時に発見されており、3件をまとめて「北方事件」と呼称されている。
1988年12月7日(水)、北方町の主婦 N(当時50歳)が失踪。
1989年1月25日(水)、北方町の会社員 Y(当時37歳)が失踪。
北方事件
1989年1月27日午後5時頃、佐賀県杵島郡北方町大峠の山林近くでドライブ中の夫婦が崖下に落とされている女性の遺体計3体を発見し警察に通報。
被害者は飲食店従業員 H(当時48歳)、主婦 N(当時50歳)、会社員 Y(当時37歳)と判明。
殺害された日は、H が1987年7月8日、N が1988年12月7日で、Y は遺体発見の2日前の1月25日とみられている。
被害者の物と思われる遺留品が遺体発見現場の周囲2キロ圏内に点々と捨てられていた。
同年11月、別件で拘置されていた男性(当時26歳)が任意の取り調べに対し犯行を認める上申書を書いたが、すぐに否認に転じた。
2002年6月11日になって佐賀県警は鹿児島刑務所に服役中の男性を、Y の殺害容疑で逮捕した(H 殺害容疑の逮捕は7月2日、N 殺害容疑の逮捕は7月9日)。
H 殺人事件の公訴時効成立約6時間前となる7月7日に起訴。
10月22日より公判が開始され、検察側は死刑を求刑したが、2005年4月10日、佐賀地方裁判所で行なわれた公判で、物証の乏しさや上申書の証拠価値の無さ(限度を越えた取り調べの上で担当者の誘導により作成されたと認定)などにより、男性に無罪が言い渡された。
その後検察側が控訴していたが、2007年3月19日の福岡高等裁判所でも一審の佐賀地裁と同様に無罪の判決が言い渡されている。
二審では検察側が新たにミトコンドリアDNAの鑑定結果を提出するも、被告を有罪とする根拠とは認められなかった。
なお、判決では長期間に渡って被疑者を拘束した上での取り調べなど佐賀県警察の杜撰な捜査が指弾された。
3月29日に福岡高検が最高検察庁と協議した結果、二審の判決には上告に必要とされるであろう重大な事実誤認ないしは判例違反が見あたらない上に、原判決を覆すのに必要とされる物証も乏しいことから上告を断念。
4月2日の上告期限を過ぎても上告せず、被告の無罪が確定した。
これによって、北方事件との関連が疑われている4つの事件も含めて公訴時効が成立し、実質的には未解決事件となった。
また、二審の判決でも指摘されたような佐賀県警や検察の杜撰な捜査、起訴の有り様も批判された。
補足
日本では検察側の求刑が死刑に対して一審判決が無罪となった例は、最高裁の統計が残る1958年以降だと、1961年に三重県名張市で起こった名張毒ぶどう酒事件(名張事件)以来、41年ぶりであり戦後5件目である(実際は1974年の豊橋事件、1983年の土田・日石・ピース缶爆弾事件で一審段階で無罪が言い渡されている)。
ただし名張事件では、一審の津地方裁判所で無罪となったものの(1964年)、上訴審では死刑判決となりそのまま最高裁で確定している(1972年)。
また、これに対しては再審請求が繰り返し行なわれている。
再審による無罪が下った事件も含めれば、1989年に再審の静岡地方裁判所で無罪となった島田事件が挙げられる。
なお、1980年代に相次いだ死刑判決からの再審で無罪となった4件の冤罪事件も含めれば、北方事件は島田事件から16年ぶり、戦後9件目である。
最高裁の記録が残る1978年以降で、死刑求刑事件で一審及び二審と続けて無罪となった例は初めてとされる。
ただし、実際は土田邸爆破事件の被告人に対しての一審及び二審無罪が存在するが、この被告人は死刑求刑事案では無罪となったものの別件の窃盗罪で有罪判決(懲役1年、執行猶予2年)が言い渡されており、記録上は有期懲役判決となっているためである。
2007年3月20日には、二審での無罪判決を受けて福岡県弁護士会が「取り調べの可視化」の実現を求める声明を発表した。

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