みどり荘事件 後編

1981年06月27日土曜日

みどり荘事件(みどりそうじけん)は、1981年(昭和56年)6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。
大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。
隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。
控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年(平成8年)6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、当番弁護士制度創設のきっかけになった事件、また、被疑者や家族に対する報道被害事件としても知られている。


控訴審
弁護団の拡充
一審判決後の記者会見を終えた古田・徳田両弁護士に、安東正美弁護士が「よかったら私も手伝わせてほしい」と声をかけた。
安東弁護士は、かつて大分合同法律事務所に所属していたことから古田弁護士の先輩にあたり、また、徳田弁護士とも以前ともに訴訟にあたった経験があり旧知の間柄であった。
敗訴に落ち込んでいた両弁護士は、大喜びでこの申し入れを受け入れた。
裁判資料を取り寄せた安東弁護士は、読み込むほどに一審判決が不当なものであると確信していった。
3弁護士はさらに多くの弁護士に弁護団への参加を呼び掛けていくことで一致したが、私選弁護人とはいえ報酬は全く期待できないこともあり、また、弁護団の団結を重視したことから、気心の知れた弁護士に一人ひとり裁判資料を手渡して声をかける形をとった。
大分合同法律事務所の所属弁護士やOB、一緒に仕事をしたことのある弁護士を中心に声を掛けていき、控訴趣意書提出までに柴田圭一・西山巌両弁護士が加わって5名の弁護団となり、さらに岡村正淳・鈴木宗嚴・千野博之、福岡の岩田務各弁護士が参加して、控訴審第3回公判(1990年(平成2年)9月17日)ころまでに9名となった。
その後も荷宮由信・岡村邦彦・須賀陽二・工藤隆各弁護士が参加して、最終的にみどり荘事件の弁護団は13名となっている。
弁護団は一審判決を再検討し、自白の任意性、102号室の住民の証言、輿掛の身体に咬傷がなかったこと、輿掛の衣類から被害者の血液の跡が見つかっていないこと、輿掛の首や左手甲の傷、毛髪鑑定の信用性などについての一審判決の判断を批判し、さらに、犯行時間に205号室の住民が203号室から「神様、お許しください」という声を聞いているが輿掛にはそうした信仰はないこと、『荒鷲の要塞』の酒場の場面が輿掛のアリバイを証明していることなどを、輿掛が犯人ではないことを示す証拠として指摘する控訴趣意書をまとめた。
最終的に200頁に及んだ控訴趣意書は、提出期限の前日に完成し、提出期限の1989年(平成元年)11月30日に、福岡高裁に直接持参して提出された。
科警研毛髪鑑定批判
再鑑定依頼
福岡高裁における控訴審第1回公判は、1990年(平成2年)3月14日に開かれた。
控訴審で弁護側は、「自白」の任意性・信用性、科警研の毛髪鑑定、輿掛の首・左手甲の傷の3点を中心に一審判決を覆す立証を試みた。
5月28日の控訴審第2回公判では早くも被告人質問を行い、同年12月17日の控訴審第5回公判までをかけて「自白」当時の取り調べ状況や家族との面会と引き換えに「自白」に応じた過程などを質問して、捜査の違法性と「自白」が強要されたものであることを明らかにしていった。
「自白」の任意性の審理と並行して、弁護団は科警研の毛髪鑑定の信用性の問題に取り組んだ。
同年7月28日、岩田弁護士から弁護団に、福井女子中学生殺人事件でも吉村悟弁護士が中心になって科警研の毛髪鑑定の信用性を争っているという情報がもたらされた。
両事件の毛髪鑑定は、鑑定時期こそ6年の開きがあったものの、鑑定人も同じで、鑑定手法も全く同じ「形態学的検査」「血液型検査」「分析化学的検査」の3つからなるものであった。
弁護団は早速吉村弁護士を知っていた西山弁護士を通じて資料を取り寄せ、たまたま9月21日に大分地裁に出廷する予定があった吉村弁護士を招いて勉強会を行った。
吉村弁護士は、毛髪鑑定に関する国内外の大量の文献を示し、形態学的検査で個人識別が可能と考えているのは科警研だけであること、分析化学的検査では同一人でもデータの変動が大きく(個人内変動性)他人間でもあまり違いがないこと(個人間恒常性)を指摘して、科警研の毛髪鑑定が信頼できないものであると説明した。
同年11月16日・17日と翌1991年(平成3年)1月7日の弁護団会議でも吉村弁護士から直接助言を受け、吉村弁護士の「弁護側として科警研の鑑定結果を覆す再鑑定を行ったほうが良い」という助言をもとに、弁護団は岩田弁護士が作成した「元素分析批判」「形態学的検査批判」という科警研の毛髪鑑定の矛盾点を指摘する2つの文書を手に再鑑定を依頼する専門家を探していった。
とはいえ、科警研が鑑定した毛髪は鑑定の過程で全量を費消しており、再鑑定は科警研の鑑定データを基に分析し直すという形をとるよりほかなかった。
1990年(平成2年)11月19日、岩田弁護士は九州大学医学部法医学教室の永田武明教授を訪問し、科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して意見を求めた。
永田教授は「元素分析批判の指摘は正しいと思う」と述べたが、「自分は毒物を専門とする法医学者であり、この内容であれば科学評論家か数理統計学者がふさわしい」という意見を示して再鑑定については固辞した。
岩田弁護士はその足で大学の同級生であった九州大学工学部の香田徹助教授を訪ねて適任者を尋ねたところ、数理統計学の世界的権威として九州大学理学部の柳川堯助教授を紹介された。
そのころ、徳田弁護士も別ルートで再鑑定を引き受けてくれる専門家をあたっていた。
徳田弁護士は、11月20日、中学校の同級生で野球部ではバッテリーを組んだ間柄の九州大学工学部の立居場光生教授を訪ね、やはり科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して適任者を尋ねると、同じく柳川助教授が適任であろうとの返答を得た。
同年11月26日、徳田弁護士と岩田弁護士は、科警研の鑑定書と「元素分析批判」「形態学的検査批判」を持って柳川助教授を訪ねて意見を求めた。
柳川助教授は、その場で科警研の毛髪鑑定の杜撰さを指摘し、12月には「統計的鑑定法」、翌1991年(平成3年)1月には「元素分析スペクトルパターンによる鑑定批判」と題する意見書を作成して弁護団に送付した。
弁護団は意を強くし、1991年(平成3年)1月31日の第6回公判後に古田・徳田・安東・鈴木・西山・岩田・千野の7弁護士が柳川助教授に再鑑定を依頼した。
柳川助教授は意見書は書いても再鑑定までするつもりはなかったようであったが、弁護団の懇願を受けて再鑑定を受諾した。
これとは別に、第6回公判で弁護団は被害者の首に巻かれたオーバーオールに付着していた体毛の鑑定を要求し、鑑定の結果、オーバーオールに付いていた体毛は血液型O型のものであることが判明した。
さらに、遺体の司法解剖の鑑定書に何かが剥がされた形跡を発見して鑑定人に問い合わせたところ、当初の鑑定書には被害者の膣内に残されていた精液はA型またはO型であると記された付属説明文書が添付されていたことが分かった。
被害者の陰毛に付着していた精液は輿掛と同じB型のものであったため、弁護団は複数犯による犯行を強く疑うようになっていった。
柳川鑑定
柳川助教授の再鑑定書は1991年(平成3年)5月17日に完成した。
鑑定書は、統計的鑑定法の考え方についての総論と、この観点から具体的に科警研の毛髪鑑定の誤りを指摘する各論部分からなり、結論として「あらゆる点において、本件において採用された毛髪鑑定法は、信頼性ある科学的根拠をもった鑑定とはいえない」と断言するものであった。
弁護団は、この再鑑定書を5月23日の控訴審第8回公判に証拠として申請し、6月25日の第9回公判では柳川助教授の証人尋問が行われた。
柳川助教授は鑑定書と証言で、まず、被告人の毛髪のサンプルが少なすぎて被告人の毛髪の特徴自体が明確になっていないこと、科警研の形態学検査は鑑定人の経験に依存しており科学的とは言えないことを指摘した。
分析化学的検査としての元素分析については、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の毛髪の塩素・カリウム・カルシウムの含有量を比較して輿掛と同程度であったと鑑定したものであるが、各人のデータには幅があり、しかも被害者の姉と輿掛の数値は大部分が重なっていることを示し、本来、この重なりあった部分は「鑑定不可能領域」であり、事件現場で採取された毛髪の数値がこの領域にあれば被害者の姉のものとも輿掛のものとも判定できないものであると指摘した。
それにもかかわらず、科警研の毛髪鑑定で事件現場で採取された毛髪のデータが輿掛のデータと一致したと判断しているのは失当であり、そもそも人の毛髪はほとんどの人で元素含有量のデータは大部分が重なるものであるから3人の毛髪だけと比較しても全く意味がないと主張した。形態学検査も含めて、科警研の毛髪鑑定は、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の3人の毛髪としか比較しておらず、事件現場で採取された毛髪が3人以外のものである可能性を全く考慮していないとし、これは、3人の中に犯人がいるという前提に立たなければ有効ではなく、方法論からしてすでに致命的欠陥を抱えた、結論ありきの鑑定であると非難した。
そして、最終的に、科警研の毛髪鑑定は「科学の名に値しない」と切って捨てた。
これに対して検察側は、7月24日付で科警研で毛髪鑑定を実施した科警研の技官の反論書を提出し、8月1日の第10回公判では柳川助教授に対する反対尋問を行ったが、反論書は柳川教授の指摘に正面から答えるものではなく、検事による反対尋問も的外れな質問を繰り返しては前田一昭裁判長からたびたび注意を受けるありさまであった。
法廷外の支援
『夢遊裁判』
1991年(平成3年)2月、ノンフィクション作家の小林道雄は、互いの親類の結婚により縁続きとなる者から、甥が熱心に支援しているというみどり荘事件の資料を受け取った。
この甥は、輿掛の自衛隊時代の銃剣道部の先輩で、自衛隊退職後は東亜国内航空の整備士として羽田整備工場に勤務していた。
彼は、輿掛の逮捕当時、警察からの電話で自衛隊時代の様子を聞かれて輿掛が自衛隊を退職することになった飲酒運転事故のことを話したが、輿掛をよく知る彼は、輿掛が殺人事件の被疑者となっていることについては「彼は絶対にそんなことをする人間ではない。何かの間違いではないか」という話をしていた。
その後、控訴審の審理が始まってから、弁護団は輿掛から「T警部補に、自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていたと追及された」という話を聞き、安東弁護士が彼に確認の電話を入れた。
彼は、自分の話の一部が切り取られ、言っていないことを捏造されて輿掛の追及に利用されたことに憤り、以後、輿掛の無実を信じて積極的に活動していた。
直接彼から事件と裁判の詳細を聞き興味を持った小林は、大分で弁護団と会い、控訴審第7回公判以降の裁判をたびたび傍聴し、輿掛とも面会するなど取材を重ねた。
弁護団は、輿掛の逮捕前後のマスコミの報道姿勢に対する不信感からジャーナリストの肩書を持つ小林を警戒感をもって迎えたが、丁寧な取材を通じて積み上げた事実を基に判断しようとする小林の取材手法に触れる中で徐々に信頼関係が形成されていった。
一方の小林は、初めて会ったときの自然体の対応や庶民的な飲み屋に通う姿から、初対面で弁護団に好印象を持ったと記している。
それでも小林は、当初、事件については予断を持つまいと努めていたが、弁護団から渡された一審判決を読んで、少なくとも刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」に反すると感じ、また、取材を通じて輿掛の無実を信じるようになっていった。
1991年(平成3年)10月、小林は月刊誌『現代』誌上で「女子大生暴行殺人事件-ある『夢遊裁判』の記録」を発表し、事件の問題点を世に問うた。
この反響は大きく、みどり荘事件は社会的な注目を集めるようになっていった。
その後、小林は、後述するDNA鑑定の鑑定結果を待っていた控訴審第17回公判ころまでをまとめた『夢遊裁判 ―なぜ「自白」したのか―』を1993年(平成5年)6月に出版し、1996年(平成8年)12月には裁判終了後までの内容を大幅に加筆・改題したものが『<冤罪>のつくり方 ―大分・女子短大生殺人事件―』として文庫化された。
救援会
控訴審が始まってから弁護団は、広く事件の真実を伝え一審判決の不当性を訴える必要性を感じていた。
1991年(平成3年)11月29日の弁護団会議で、正当な判決を求める人々を組織して世論の力で外から裁判所を包囲する方針を確認し、安東弁護士を中心に救援会設立に向けて動き出した。
翌1992年(平成4年)1月26日に「みどり荘事件を考える会」を開催することを決め、1991年(平成3年)12月27日には、県内で様々な問題に取り組む約40名に、『現代』に載った小林の「夢遊裁判」を同封して参加を呼び掛ける文書を発送した。
1992年(平成4年)1月26日、大分市の大分文化会館で「みどり荘事件を考える会」が開催された。
事前の弁護団の心配をよそに、準備していた席はすぐに埋まったため急遽追加の椅子を持ち込み、最終的に約50名が参加する大盛況となった。
「考える会」では、一審判決や「自白」、科警研の毛髪鑑定、輿掛の傷などの問題点を、休憩なしで約4時間、弁護士が交替しながら熱く語った。
そして、3月9日の次回控訴審第13回公判で、直接輿掛を見て、その語る声を聞いて、輿掛の人柄を確認してほしいと傍聴を呼び掛けた。
その控訴審第13回公判には、それまでほとんど傍聴者のいなかった法廷に十数名の傍聴者が集まり、輿掛の被告人質問を見守った。
こうした人たちを中心に救援会の結成に向けた準備会を重ね、同年5月17日には市内中心街で結成集会への参加を呼び掛けるビラ1,000枚を配った。
呼びかけ人には57名が名を連ねた。
同年5月24日、大分市の大分県労働福祉会館で、真相報告会と救援会結成の集会が行われ、180名余りが参加した。
「考える会」と同じく各弁護士が事件と裁判の概要と問題点を語り、鈴木弁護士は「いけにえの論理にマスコミが加担」と題して当時のマスコミの報道姿勢を批判した。
参加者の一人、ホテル時代の輿掛の同僚は、マスコミの報道を信じて輿掛を犯人にしてしまったと自らを責め、年月がたって世間からいろいろと言われることも少なくなった中であえて姿を見せた輿掛の家族の気持ちを慮る言葉を涙ながらに語って、参加者の感動を呼んだ。
救援会は「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」(略称みどり荘救援会)と命名された。
みどり荘救援会は、安東弁護士を事務局長として、主に次のような活動を行っていった。
会報の発行
みどり荘救援会結成を報告した第1号から控訴審判決が確定した約5か月後の第20号まで、『無罪』と題する会報を発行した。
会報は結成総会や公判傍聴に参加できなかった会員にその内容を伝え、新たな会員の獲得や次回公判の傍聴を勧誘する役割を果たした。
真相報告会の開催
みどり荘救援会は、会員のつてを頼りに真相報告会を開催した。
結成3か月後の同年8月には佐伯市で100名、日田市で180名を集めるなど大分県内各地で報告会を繰り返し、1994年(平成6年)6月28日には初めて福岡市で開催するなど、最終的に約50回を数える報告会を実施して支援の輪を広げていった。
裁判の傍聴
前述の通り、弁護団はみどり荘救援会結成前の第13回公判の傍聴を呼び掛け、十数名が傍聴した。
傍聴活動の目的は、支援者が裁判を見て輿掛が無実かどうか自分自身で判断することと、大勢の支援者で傍聴席を埋めて輿掛を励ますことであった。
『夢遊裁判』を著したノンフィクション作家の小林は著書の中で、それまで閑散としていた傍聴席に十数名が入っただけで、法廷の雰囲気が一変したと記している。
みどり荘救援会結成後の第14回公判からは、救援会がマイクロバスを準備しての傍聴活動が始まったが、回を追うごとに傍聴希望者が増え、すぐにマイクロバスから大型バスに変わった。
行きのバスの車内では必ず同行する安東弁護士からこれまでの裁判の推移と当日の公判での弁護側の意図が説明され、帰りの車内では弁護士から当日の公判の解説を聞き、参加者にはビールが配られて一人ひとりが感想を述べ合った。
みどり荘救援会は、結成後1週間で190名の会員が集まり、同年末には400名を超えた。
そして、控訴審判決直前に開かれた1995年(平成7年)5月27日の第4回総会時点で、会員数は621名を数えている。
DNA鑑定
委嘱
弁護側が柳川鑑定書を提出した1991年(平成3年)5月23日の第8回公判終了後、前田裁判長は弁護団と検察を呼び出し、犯行現場に遺留されていた毛髪と被害者の膣内から採取された精液をDNA鑑定にかけることを打診した。
この日の毎日新聞朝刊の1面には、「DNAで犯罪捜査」の見出しで「警察庁が五月二二日に、DNA鑑定について、鑑定方法などを統一したうえで制度として犯罪捜査に導入することを決めた。この鑑定制度の導入により、わずかな血痕、体液、皮膚片から個人の特定が可能となり、日本の犯罪捜査は指紋制度の発足(一九一一年)以来の大転換となる」とする記事が掲載されていた。
科警研の毛髪鑑定の信用性を崩しかけていた弁護団はこの申し入れに困惑し、弁護団会議では侃々諤々の議論が交わされた。
当時、DNA鑑定は100万人に一人の確率で個人識別が可能などとマスコミで報道されていたが、まだまだ未知の領域でありDNA鑑定の科学的信頼性には強い疑問が残る、すでに無実の立証は尽くされており不要であるなどとして、弁護団は当初DNA鑑定には否定的であった。
しかし、8月1日の第10回公判後にも再度裁判所からDNA鑑定を行いたい意向が示され、最終的に弁護団も、膣内から採取された精液が輿掛のものではないとする鑑定結果が出れば無罪が明らかになること、無罪を争いながらDNA鑑定に反対することは弁護団も不安を持っていると受け取られかねないこと、打ち合わせの場で陪席裁判官から「DNA鑑定がなくても自白がある」との発言があったことから裁判所側がこの段階で無罪の心証を持っているとは言えないこと、さらに、裁判所の強い意向を考えると受け入れざるをえないとして、DNA鑑定の実施に同意した。
こうして、有罪にするにしろ無罪にするにしろ確かな証拠が欲しい裁判所、科警研鑑定が崩された検察、しぶしぶ受け入れた弁護団と、三者三様の思惑を抱きつつ、10月31日の第12回公判で日本で初めての裁判所の職権によるDNA鑑定が行われることが決まった。
鑑定は、DNA多型研究会(現日本DNA多型学会)運営委員長の筑波大学三澤章吾教授に依頼することになり、同年11月14日、同大社会医学系長室で鑑定人尋問が行われDNA鑑定が委嘱された。
鑑定事項は、被害者の膣内容物を採取したガーゼ片に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有するものが存在するか、事件現場から採取された毛髪に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有する毛髪が存在するかの2点であった。
三澤教授からは、同大の原田勝二助教授を鑑定補助者にしたいと申し出があり、認められた。
また、鑑定対象と同程度の古い毛髪を使用しての予備実験に約6か月、その後、実際の試料を用いた鑑定にさらに約6か月かかるため、鑑定結果が出るのは約1年後の翌年10月になる見込みであること、鑑定過程で試料は全量費消される旨の説明があった。
尋問に立ち会った古田・徳田・安東・西山の4弁護士は、後日検証が可能なように、試料は全量費消せず一部を残しておくこと、実験ノートを作成して実験データ等の鑑定経過を記録に残し提出できるようにしておくことの2点を要求し、三澤教授も了承した。
鑑定待ちの間の審理
DNA鑑定が委嘱されその結果を待つ間、弁護側は「自白」の任意性・信用性を焦点に再度被告人質問を行った。
ここで弁護側は、一審での輿掛と弁護人の信頼関係についてと、「自白」の変遷についてを明らかにしようとした。
一審判決が輿掛の「自白」の信用性を認める最大の拠り所としたのは、通常虚偽や強制された自白の撤回は公判の早い段階でなされるものであるのに、輿掛は一審第12回公判まで不利益供述を維持した点であった。
実際には一審第2回公判以降は輿掛に発言の機会はなく、次に発言した一審第12回公判で「自白」は撤回していたが、徳田弁護士の誘導尋問によって一審第1回・第2回公判での供述に引き戻されていた。
弁護団は、一審第1回・第2回公判で不利益供述をしたのは弁護人との間に信頼関係が築けていなかったためであり、第12回公判で徳田弁護士の誘導尋問に乗って「事件現場にいたことは覚えている」旨を認めたのは逆に信頼関係が生まれていたからだということを明らかにしようとしていた。
一審の古田・徳田両弁護人は一審での弁護活動を自己批判する供述録取録を提出し、1992年(平成4年)3月9日の第13回公判では輿掛の口から「一審での不利益供述の維持は弁護人に問題があった」ことを引き出そうとした。
特に一審第12回公判で強引に供述を引き戻した徳田弁護士は、事前に輿掛と何度も打ち合わせを行い、「そんなことは言えません」という輿掛に対して、「僕があのような質問をしなければ有罪認定の理由に使われることもなかった」
「君は僕を憎まなければならない」
「お前があんなことを言ったせいで有罪にされたんだという思いを込めて言わなかったら伝わらない」
と繰り返し説得した。
しかし、公判では輿掛から弁護人を批判するような言葉は出てこなかった。
公判後、輿掛は「先生たちの質問に充分に答えられず、申し訳なかったと思っています」と手紙に書いたが、輿掛の性格をよく知る徳田弁護士は「やっぱり駄目でしたね」と静かに笑っただけであった。
続く同年6月17日の第14回公判で、弁護団は「捜査段階における被告人の不利益供述の変遷と信用性に関する弁護人の意見書」と題する意見書を提出し、9月7日の第15回公判にかけて輿掛の「自白」の変遷について被告人質問が行われた。
この中で弁護団は、輿掛の「自白」が重要な点あるいは記憶違いとは考えにくい点で変遷しており、しかもその理由が全く説明されていないことを指摘した。
例えば、事件現場の203号室から自室に戻る際、当初は裸足であったとはっきり述べていたにもかかわらず、裸足だったと思う、裸足だった気がすると変わっている。
また、当初の自室に入る際に鍵を使ってドアを開けたと思うとの供述も、「鍵をしてあったかどうかがはっきりしません」という供述を経て、最終的に「鍵を開けて入った記憶はありません」と変遷している。
弁護団は、これらは輿掛にとって何の意味もないことであるが、警察が当初輿掛は窓伝いに203号室に侵入したと想定していたと仮定すると意味のある変遷になると主張した。
すなわち、窓伝いに侵入したとすると裸足で行動したはずであり、事件当日買い物から帰った時に部屋の鍵を閉めた輿掛は犯行後に鍵を開けて自室に戻ったはずである。
しかし、窓伝いに侵入したとする仮説が物理的に不可能なことが判明すると、裸足で行動したり、犯行後に戻ってくる自室のドアに鍵をかけてから203号室に行き犯行に及んだとすることは逆に極めて不自然となってしまうため、当初の供述を変更する必要が生じたと考えることができる。
弁護側は、こうした供述の変遷は、輿掛の「自白」が警察によって強制ないし誘導されたものである何よりの証拠であると主張した。
同年11月25日の第16回公判には、事件直後に輿掛に取材した新聞社の記者が出廷した。
輿掛は、事件直後に当時の恋人の実家に電話を掛けた後に新聞社の記者から取材を受けたと話していたが、どこの新聞社の誰であるのかは分かっていなかった。
しかし偶然にもこの年の4月にその記者が別件で徳田弁護士に手紙を出し、その中で事件直後の輿掛に取材をしたことが触れられていたことから、事件直後に取材したのがこの朝日新聞社の記者であることが分かったのであった。
この記者は当時の取材メモも残しており、記憶とこのメモをもとに事件直後の輿掛の様子を証言した。
この記者によれば、「みどり荘に到着したのは1時15分ころで、すでに規制線が張られていた。公衆電話で話していた輿掛を見つけて電話が終わるのを待って声をかけた。輿掛は質問にはすべて答え、特に不審な様子は感じなかった。輿掛は上下ジャージであったが、ジャージの下に何かを持っている様子もなかった。取材後はまっすぐみどり荘に帰って行った」ということであった。
また、後に輿掛が重要参考人として捜査対象になっていることを知った際には「非常に意外で何か自分は人を見る目がないのかなと思いました」と述べている。
弁護側は、この証言によって、電話を掛けるために外出した際に血液等の付着した下着などを処分する余裕があったとした一審判決の認定の誤りを立証できたと考えた。
一方、DNA鑑定の結果はなかなか提出されなかった。
当初は鑑定書の提出は1992年(平成4年)10月ころを目途とされていたが、同年9月の裁判所の問い合わせに対して三澤教授は12月末になると回答した。
しかし、年が明けても提出されず、1993年(平成5年)2月4日の第17回公判では新たに着任した金澤英一裁判長から「鑑定書の提出は4月上旬になる」と報告され、この公判以降鑑定結果待ちとなって審理は完全にストップした。
鑑定結果
三澤教授からの鑑定書は、1993年(平成5年)8月12日に福岡高裁に提出された。
三澤教授によるDNA鑑定は、対象試料からACTP2 (ACTBP2)と呼ばれるマイクロサテライトの部位をPCR法で増幅させ、そのGAAAの4塩基の反復回数でDNA型を判定するというものであった。
これは、マイクロサテライトをDNA鑑定に用いた日本で初めての例となった。
鑑定結果は、被害者の膣内容物が含まれたガーゼ片からは被害者と同一のDNA型しか検出されなかったが、事件現場から採取された毛髪のうちの1本(符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1)から、輿掛と同一のDNA型が検出されたというものであった。
鑑定書によれば、血縁関係にない全くの他人が同一のDNA型となる確率は0.088%とされていた。
鑑定結果に驚いた弁護団は同日中に鑑定書を入手すると直ちに内容の精査に入ったが、読めば読むほど鑑定書に多くの問題があることが明らかになった。
鑑定書には「鑑定には平成三年一一月一四日から平成五年八月一〇日までの六三六日を要した」と記されているにもかかわらず鑑定書の作成日付が「平成五年七月三一日」と記されていることをはじめ、鑑定データからは11/23型となるべき輿掛のDNA型が16/36型とされているなど、基本的な点や重要な点に多くの誤りが見つかった。
全26ページ(本文9ページ、註・図等17ページ)の鑑定書中で、弁護団が発見した誤りは53か所に及んだ。
また、膣内容物からは被害者のDNA型しか検出されなかったが、鑑定書には「この結果は、膣内容物中に精子が付着していなかった事を積極的に裏付けるものではない。勿論、輿掛良一の精子由来のDNAが膣内容物に存在しないという結論も導き出せない」と記述され、これは鑑定人が予断をもって鑑定にあたったことを感じさせるに十分であった。
さらに、0.088%という確率を導いたデータベースのサンプル数は65と少なすぎて信頼性に疑問があることに加え、添付された表から計算すると正しくは0.178%であった。なお、弁護団は鑑定書が届いて1週間後の8月19日の時点ですでに鑑定結果が誤りであることを示す決定的な証拠をつかんでいたが、輿掛と弁護団のほかにはごく一部の者にしか知らせずに切り札として温存し、当面は鑑定書の矛盾や問題点を正面から追及していくこととした。
9月21日、鑑定結果を受けての裁判所・弁護団・検察三者の打ち合わせがもたれた。
「この事件はDNAで決まりでしょう。いまさら、弁護団は何をされるのですか」という金澤裁判長に対して、弁護側はいくつかの誤りを示して鑑定の杜撰さを指摘し、三澤教授の尋問を求めた。
裁判所側は三澤教授の多忙を理由に筑波大学での出張尋問を提案したが、弁護側は裁判公開の原則を盾に公判での尋問を譲らず、福岡高裁で鑑定人尋問が行われることになった。
この打ち合わせの翌々日の9月23日、福岡高裁に三澤教授から鑑定書に対する訂正書が届き、32か所が訂正された。
刑事事件の鑑定書でこれだけの箇所が訂正されるというのは前代未聞であった。
また、訂正書の作成日付は9月20日付、消印は9月22日であった。
鑑定人尋問
1993年(平成5年)12月9日の第19回公判から、三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。
三澤教授は、鑑定書の作成日付については「秘書のワープロミス」と弁明したが、鑑定試料の番号の誤りについてや、鑑定試料と同程度の古い試料を用いた予備実験をいつからいつまで行ったのか、実際の鑑定試料を用いた鑑定はいつ始めたのかなどについては「実験に関与していないので分からない」と答えた。
また、弁護側の「基礎データに基づいて鑑定文が書かれるはずであるのに、基礎データと鑑定文が食い違っているということは、データの改竄や作り直しがあったのではないか」との追及に対しては「基本ルールに従った」「結論に間違いはない」と繰り返し、金澤裁判長からも「質問の意味が分かっていない」と諌められた。
そして、弁護側は鑑定前の尋問で約束していた実験データ等の提出を求めた。
三澤教授はこれに応じ、この公判に前後してX線写真のフィルムや測定データ等を提出した。
翌1994年(平成6年)1月26日の第20回公判でも三澤教授に対する鑑定人尋問が行われたが、この日の公判でも弁護側からの質問に三澤教授は「それは原田助教授がやった」と繰り返すばかりだった。
この日の尋問では、三澤教授は鑑定作業や鑑定書作成に全く関与しておらず原田助教授に任せきりにしていたこと、実際に鑑定試料を使って鑑定作業を始めたのは鑑定書を提出した1993年(平成5年)の5月であったことが明らかになった。
三澤教授に対するDNA鑑定の委嘱は1991年(平成3年)11月14日に行われたが、そこから鑑定書提出までの経緯は、後に判明したものも含めると以下のようなものであった。
1991年 11月
鑑定委嘱 翌年10月に提出の見込
1992年 春頃
同程度に古い試料の鑑定を試みるも判定不能
ACTP2の存在を知る
9月
12月中に提出と回答
年末
ACTP2を用いた実験開始
1993年 2月
4月上旬に提出と回答
5月
鑑定試料を用いた鑑定を始めるも判定不能
7月
判定可能となり鑑定書作成
8月
鑑定書提出
三澤教授らは、鑑定を引き受けた段階で、10年前の古い試料からDNA鑑定を行う具体的な方法を知らなかった。
1992年(平成4年)春まで、鑑定試料と同程度の古い試料を用いてGSTπやアポBといったマイクロサテライトで鑑定を試みたが、結果は判定不能であった。
たまたまそのころイギリスの科学雑誌『ヌクレィック・アシッズ・リサーチ』にACTP2というマイクロサテライトを紹介している記事を見つけ、三澤教授らはこれを用いた鑑定を試みることにする。
同年末ころから実験を始め、茨城県内の70名の血液からデータベースを作成して1993年(平成5年)4月の日本法医学会で「血痕・毛根試料からの個人識別に有効なVNTR(高変異反復配列)の検出」と題して報告し、異論が出なかったことから学会で承認された形となった。
学会後の1993年(平成5年)5月から、鑑定試料を用いた鑑定作業を始め、当初は判定不能であったが7月ころから判定可能となって原田助教授によって鑑定書が作成された。
三澤教授は、原田助教授から完成した鑑定書を受け取って、30分から1時間程度目を通して記名・押印して提出した。
このような経緯であったにもかかわらず、いまだACTP2を用いた実験を行う前の1992年(平成4年)9月に裁判所からの照会に対して12月中に鑑定書を提出できると回答し、鑑定試料を使った鑑定作業に入る前の1993年(平成5年)2月にも4月上旬に提出すると回答するなど、三澤教授らは裁判所や弁護団に対して虚偽の報告を繰り返していたのであった。
4月20日の第21回公判でも引き続き三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。
ここではデータベースの信用性が問われたが三澤教授はまともに回答できず、法廷には傍聴していた統計応用学者で元明治大学教授の木下信男の高笑いが響いた。
木下元教授は閉廷後に三澤教授のことを「集団遺伝学についてまったく無知」と語ったが、三澤教授は金澤裁判長からも公判中に理解不足を指摘されている。
また、この日の公判で、検察側・弁護側双方が三澤教授の鑑定書に対する意見書を提出した。
検察側は、原田助教授を鑑定補助者として実験を行わせることは鑑定を委嘱する際に弁護人も了承していると主張したが、弁護側は、宣誓の上で鑑定を引き受けたのはあくまで三澤教授であり、原田助教授を鑑定補助者とすることが認められているとはいっても限度があるとして鑑定書は真正に作成されたとはいえず証拠能力がないと主張し、多忙や人員不足、鑑定に必要なアイソトープを扱う免許がないなどとして原田助教授に丸投げした三澤教授は鑑定人としての自覚や資格に欠けると厳しく指摘した。
さらに、弁護側は意見書の中で、これまで隠してきた毛髪の長さの問題を初めて指摘した。
長さの問題
弁護団が指摘した毛髪の長さの問題とは、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」の毛髪が15.6センチメートルの長さがあったという点である。
事件当時の輿掛の髪型はパンチパーマで、当時警察に任意提出した毛髪は最も長いものでも7センチメートルであり、一目見て輿掛のものではないと分かるものであった。
実際、この「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」は事件当日の1981年(昭和56年)6月28日に被害者の部屋の和室の押入れ前で採取されたもので、大分県警の科捜研から警察庁の科警研に毛髪鑑定に出す際にも、長さや形状から被害者または被害者の姉のものと判断されて対象から除かれたものであった。
それでも検察側は、たまたま長いものがあったのではないかと主張した。
1994年(平成6年)6月6日の第22回公判では、実際に鑑定にあたった原田助教授に対する尋問が行われた。
原田助教授は、検察側の主尋問に対して、鑑定書でいう「同一の型」とは「類似性が高い」という意味であると証言した。
弁護団は、「同一の型」と「類似性が高い」では全く意味が違うと驚いたが、鑑定の信用性が揺らいできたと感じて軌道修正を図ったものととらえた。
この日の弁護側の質問では、原田助教授に対してACTP2法でのDNA型の分類方法を繰り返し確認した。
ACTP2法はGAAAの4塩基の繰り返し回数で判定するものであるので理論上は4塩基ごとに分類すれば良いはずであるのに、三澤鑑定では1塩基ごとで分類していたためである。
しかし、実際にはACTP2に3塩基や5塩基の不規則なものもあることが分かったため1塩基単位の分類とされており、原田助教授は、この分類方法では1塩基でも違えば他人であること、また、総塩基数が同じであっても3塩基や5塩基のものも含めて結果として同一になっている可能性があり、その場合も他人であることを認めた。
7月4日の第23回公判には、事件当時の輿掛の髪の長さを立証するために弁護側の申請した3名の証人が出廷した。
一人目は、輿掛の長姉であった。
長姉は事件の約10か月前に執り行われた輿掛の父の葬儀の様子を写真に撮っており、そこには、短髪の輿掛が写っていた。
長姉は、写真は父の葬儀の時のものであり、その前日に「喪主だからきちんとしなければいけない」と言って輿掛を散髪に行かせたと証言した。
二人目に証言に立ったのは事件当時輿掛の行きつけの理容店で輿掛を担当していた理容師で、葬儀の時の写真を見て髪型は角刈りで長い部分でも1センチメートル以下であると証言した上で、人の髪は1か月に約1センチメートル伸びること、事件前に輿掛はおおむね月に1度来店してパンチパーマをかけていたこと、事件後の1981年(昭和56年)7月11日に撮影された輿掛の髪型もパンチパーマであることなどを証言した。
最後に証言した大分県理容美容職業訓練協会の副会長も、葬儀の時の輿掛の髪型は角刈りで長くても1センチメートル、人の髪は1か月に約9ミリメートルから1センチメートル伸びるとし、パンチパーマをかけた髪は長くても5センチメートルであり、事件後の輿掛の写真は幾分伸びているが5から8センチメートルの長さであり、またパンチパーマは時間の経過とともに緩むことはあってもストレートになることはないと証言した。
これらの証言から、輿掛の父の葬儀から事件当日までは約10か月であり、その間一度も散髪をしなかったとしても11から12センチメートルにしかならず、また、事件当時の輿掛はパンチパーマでどんなに伸びていたとしても10センチメートルを超えることはないことから、DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする15.6センチメートルの毛髪は輿掛のものではありえないことが立証された。
保釈
DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪が輿掛のものではありえないことが明らかになった第23回公判直後の1994年(平成6年)7月7日、弁護団は福岡高裁に対して輿掛の保釈を請求した。
保釈請求書では、輿掛の身柄拘束が12年6か月に及んでいること、逮捕や一審有罪の決め手となった科警研の毛髪鑑定はすでに「科学の名に値しない」と否定されたこと、検察側の立証は終了しており罪証隠滅の恐れはないこと、輿掛は潔白を主張する場として公判に積極的に関わっており、また、無罪を確信しているため逃亡の恐れも全くないことなどを理由として挙げた。
7月11日、福岡高裁第一刑事部は保釈許可を決定。
これに対して検察側は、一審で無期懲役が言い渡された重大事件であること、控訴審での審理でも輿掛を犯人とする証拠が増大しており罪証隠滅の恐れもあること、一審・控訴審の審理経過からして勾留が不当に長期にわたっているとは言えないことなどから、保釈許可決定には裁量権の逸脱があり違法として直ちに異議を申し立て、同高裁第二刑事部で審理されることになった。
弁護側は、一審の審理の長期化は検察側の大量の補充立証が原因であり、控訴審の審理の長期化も裁判所の職権でDNA鑑定を採用したことによるもので、輿掛には何らの責任もないのであるから長期の勾留を甘受すべきいわれはないと反論した。
8月1日9時50分、福岡高裁第二刑事部は検察の異議申立の棄却を決定。
決定では、そもそも犯人と輿掛を結び付ける直接証拠自体が乏しい上に検察側の立証はすでに終了しており現在争いになっている13年余り前の輿掛の髪の長さについて罪証隠滅は考えにくいとし、弁護人全員の身柄引き受け書が提出されており輿掛にしてみれば簡単には出せない300万円が保証金とされているとして逃亡の恐れも薄いとし、12年6か月以上拘束が続いていることも考慮すると、保釈許可は裁量権を逸脱して違法とは言えないとした。
検察は特別抗告を断念し、輿掛は同日保釈された。
殺人事件で一審で無期懲役判決を受けた被告人が保釈されるのは日本ではきわめて稀である。
当日の夕刊は、この異例の保釈を大きく取り上げた。
その日の夕方に大分に戻った輿掛は、18時から大分県労働福祉会館で開催された「保釈歓迎・完全無罪をめざす集会」に参加した。
会場には、急な呼びかけにもかかわらず350名の支援者が集まった。
「破綻」
1994年(平成6年)11月16日、第24回公判で病気入院中の金澤裁判長から永松昭次郎裁判長に交代し、12月19日の第25回公判では、再度原田助教授を呼び、尋問が行われた。
弁護側は、前回の尋問での原田助教授の「1塩基でも違えば他人」という証言を前提に、実際の鑑定におけるDNA型の判定方法を中心に質した。
三澤教授の鑑定方法は、試料からACTP2と呼ばれるGAAAの4塩基の繰り返しからなるマイクロサテライトを抽出し、PCR法で増幅して電気泳動にかけ、その移動距離で塩基数を計測するというものであったが、電気泳動はその時々の条件によって結果が異なるため、100塩基単位のラダーマーカーと呼ばれる既知の塩基数の試料を同時に電気泳動にかけることで、それとの比較から対象試料の塩基数を計算して求める。
原田助教授によれば、電気泳動の結果を撮影したX線フィルムを拡大コピーしたものにトレーシングペーパーをあて、泳動結果を示すバンドの中心に鉛筆で線を引いて泳動距離を測定したということであった。
1塩基の違いは、元のX線フィルムで約0.33ミリメートル、拡大したもので約0.5ミリメートルにあたる。
しかし、輿掛の血液のDNAのバンドの幅は約8ミリメートル(24塩基分)、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のバンドの幅は約2ミリメートル(6塩基分)あった。
原田助教授らの測定方法は、それぞれのバンドのだいたい真ん中と思われるあたりに目測で線を引いて、その距離を1ミリメートル単位の目盛の普通の定規で測るというものであった。
このやり方では、それぞれのバンドのどこに線を引くかで数塩基程度の誤差は容易に生じうるし、引かれた線も基準の線と平行ではなく、どこを測るかによって計測結果が変わってしまう。
実際、鑑定書の元となったデータには、輿掛の血液と輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪の各バンドをそれぞれ3回測った測定データがあったが、同じバンドを測ったはずのその値は、測定の都度異なっていた。
弁護団は、1塩基単位で正確な計測が求められるにもかかわらずこのような測定技術しか持っていなかったことから、「本鑑定は破綻しているのではないか」と追及した。
これに対して原田助教授は、「当時としては、できる限りの技術を使った」としつつも、「今の研究成果からみると、未熟」で、「明らかに先生のおっしゃるとおり」「破綻していると言っても差し支えない」と答えた。
その瞬間、傍聴席からはどよめきが上がり、裁判官は驚いた表情を浮かべた。
さらに、弁護側は「同一の電気泳動パターンが検出された」として鑑定書に添付された電気泳動写真について追及した。
輿掛の血液のDNAバンドがレーン1に、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のDNAバンドがレーン2にあり、同じ位置にバンドが現れているように見える。
弁護団が鑑定書を入手した際に、鑑定書を渡して意見を求めた新潟大学の山内春夫教授は「被告人のバンドと現場遺留毛髪のバンドは同一であるように見える」と言い、九州大学の柳川教授も「鑑定書にミスが多いことをいくら強調しても、実験データが崩れない限り三澤鑑定を否定できない」という感想を述べていたものである。
しかし、鑑定書の後から提出された元々のX線フィルムを確認すると、これは別々の機会に電気泳動にかけられたもののX線フィルムを合成したもので、それぞれの電気泳動ではラダーマーカーの泳動距離自体が異なっており本来比較できるようなものではなかった。
弁護団は「合成したことはどこにも書いていない」「同一の機会に行われた電気泳動の写真であると誤解するのではないか」と追及したが、原田助教授は、「あくまでわかりやすくするために参考として付けただけ」として電気泳動写真は「何の測定データにも根拠にもなっていない」と答えた。
そして、最後に、弁護側から再度「類似」の意味を問われた原田助教授は、ひょっとしたら同じかもしれないし違うかもしれないという意味であると答えた。
原田助教授の尋問が終わると、永松裁判長は弁護団と検察を別室に呼び、弁護側が請求していた傷についてと検察側が請求していた毛髪についての証人申請を取り下げるよう求めた。
弁護側・検察側ともにこれを受け入れ、この日の公判をもって控訴審の証拠調べを終えた。
最終弁論
1995年(平成7年)2月24日、第26回公判が開かれ、13時30分に弁護側の最終弁論が始まった。
弁論は「本件事件の特徴と真犯人像」から始まり、捜査段階や第一審での輿掛の不利益供述の任意性と信用性、102号室の住民の水音に関する証言の信用性、輿掛の身体にあった傷の評価、科警研の毛髪鑑定、三澤教授によるDNA鑑定の証拠能力や信用性などについて、安東・徳田・千野・鈴木・荷宮・古田・岡村邦彦の各弁護士が順に弁護側の主張を述べていった。
弁論の結びとなる「結語」は徳田弁護士が行った。
徳田弁護士は、第一審から弁護についた者として自ら担当を願い出て、誰にも相談することなく一人で「結語」を書き上げていた。
その内容は、自らの第一審での弁護活動を痛烈に自己批判するものであった。
原審第一回公判が開かれたのは、昭和五十七年四月二十六日である。既に十三年の歳月が経過した。
その第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。
「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」
本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋をもって読み返したことであろうか。
これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面した時から始まった。
ここには、新聞報道で全面自供と伝えられていたその「かけら」も認められなかった。「犯人は自分に違いない」との結論だけが強調され、何一つとして具体的な犯行状況が語られていないばかりか、何の脈絡もなく突然「気がついたら二〇三号室にいた」との供述に始まる調書は、私達の理解をはるかに超えていた。
被告人がその不利益供述に至る過程で、三日間以上にわたって絶食状態であったことを私達は知らなかった。
その故に、その被告人に対し連日十時間以上の取調べがなされたことの過酷さを私達は理解できていなかった。
指紋が犯行現場に遺留されていた等という虚偽の事実が突きつけられ、「科学の名に値しない」毛髪鑑定結果の告知とともに被告人をがんじがらめに呪縛していたことを私達は予想だにしていなかった。
母に合わせてくれと泣き崩れる被告人に対し、卑劣にもその「特別措置」の代償として、このような不利益供述が強制されたのだということを私達は知るよしもなかった。
弁護人として、恥ずべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。
その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠り、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることに気付かせる契機を与えることができなかった。
被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。原審第十二回公判における被告人に対する強引な誘導尋問を含めて、私達は、自らの弁護人としての基本姿勢の誤りを何度か責め苛んできた。
本弁論における被告人の不利益供述の任意性に関する分析は、その苦渋と悔悟と謝罪の所産である。
— みどり荘事件弁護団 「控訴審弁論要旨」

そして、裁判所に対して、科警研の毛髪鑑定や三澤教授によるDNA鑑定といった「科学を装った非科学的鑑定」を厳しく明確に批判した上での完全無罪判決を求めて弁論を締めくくった。
徳田弁護士が弁論を終えると、2時間にわたる弁護側の最終弁論を静かに聞いていた傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。
永松裁判長は、「静かにしなさい」と拍手を制止した。
そして、「こんな立派な弁論に対して失礼でしょう」と付け加えた。
続いて検察側の最終弁論が行われたが、傍聴していたノンフィクション作家の小林道雄によれば、「弁護側が論破した問題点に対して、聞くべき反論はいささかもなかった」。
この公判で控訴審は結審し、判決公判は6月30日と指定された。
控訴審判決
1995年(平成7年)6月30日、福岡高裁で判決公判となる控訴審第27回公判が行われた。
14時に開廷し、永松裁判長が「主文。原判決を破棄する。被告人は無罪」と逆転無罪となる判決を読み上げると、満席の傍聴席から大きなどよめきと拍手、そして被告人の長姉の咽び泣く声が法廷に響き渡った。
永松裁判長は「静かに」とそれらを制した後、判決理由を朗読した。
判決理由では、輿掛の首と手の傷についての検討から始め、争点となった点について以下の通り次々と弁護側の主張を認めていった。
首・左手甲の傷
まず、輿掛の頚部の傷について、一審判決では「被告人の傷の状態を最も慎重に綿密に観察しているのは、本件犯行直後被告人から事情聴取をしたT警察官であるとして、Tの証言を高く評価して」いたが、控訴審判決では、「Tは、被告人の傷を観察してから一年以上も経過した後に証言している」こと、「観察当時に損傷状態を写真に撮影するとか、損傷状態の見聞結果を詳細に図示するなど、確たる記録を残す措置をとっておらず、主として本人の記憶のみに基づいて証言していること」、「証言時より記憶が新しいはずの捜査段階においては、検察官に対し、右のようには供述せず、頚部の細長い傷はみみずばれみたいな状態であった旨供述していること」などから、「T証言の信用性については疑問の余地がある」とした。
また、牧角名誉教授の鑑定によれば、輿掛の頚部の傷は発赤反応であり「発赤反応は皮膚刺激から遅くとも二時間から三時間の経過によって消褪する」のであるから、輿掛の頚部の傷は「むしろ、本件犯行の犯行時間帯に生成されたものではない可能性の方が大きい」などとし、「虫に刺されて引っ掻いたかもしれないという被告人の弁解も、一概には否定できない」として、「被告人の頚部の損傷は本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が高いとした原判決の判断は、疑問であり、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。
また、左手甲の傷についても、一審判決では、ビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が高いとする鑑定結果から、「ビールラックを移動中に傷つけたかもしれない」という輿掛の弁解を排して被害者の抵抗によって生じた可能性が高いと判断したが、控訴審判決では、「縦横とも二ないし三ミリメートルのごま粒ほどの小さい傷であることを考慮すると、日常生活の中で気付かないうちに負傷することもあり得ないわけではなく」、「被告人の弁解は、ビールラックで打った時にできたのではないかという推測の説明であり、ビールラックで傷つけたという記憶に基づいたものではない」とした上で、「古いビールラックになると、その表面にささくれや凹凸が生じていることもあり、その部分と左手甲との接触によって負傷する可能性も全くないとはいえない」ことや、鑑定も「被告人が負傷したかもしれないという時に扱ったビールラックを使用せず、他のビールラックを使用して実施した」ものであることなどから、「本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が強いとした原判決の判断は、根拠に乏しく、是認することができない」として、これも一審判決の判断を退けた。
毛髪鑑定
事件現場から採取された陰毛について、一審判決は、科警研の毛髪鑑定を「信用性があると評価した上、被告人の陰毛である可能性の高い陰毛が二〇三号室に落ちていたと判断し、被告人と本件犯行とを結びつける重要な状況証拠の一つとしている」が、控訴審判決では、控訴審で提出された複数の文献は「いずれも、体毛鑑定によって個人識別ができるとすることには消極的」であり、科警研の鑑定人の一人も形態学的特徴や分析化学的特徴から断定的な識別は困難であることを認めていることから、科警研の毛髪鑑定では「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは『類似する』という程度の域を出ない」とし、「体毛鑑定は、個人識別の方法として絶対確実とはいえず」「体毛鑑定の結果を重要な決め手とすることは危険であって許されない」と断じた。
DNA鑑定
事件現場から採取された毛髪から輿掛と同一のDNA型が検出されたとする三澤教授によるDNA鑑定については、「長さ一五・六センチメートルもあるような本件遺留毛髪が被告人の毛髪であるとは到底考えられず」、実際の鑑定にあたった原田助教授も「現時点のレベルからみると、三澤鑑定書の鑑定結果は破綻していると言っても差し支えない旨自ら認めて」おり、「三澤鑑定書には、その信用性を是認することができず」「三澤鑑定書をもって、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠とすることはできないと言わざるを得ない」として排した。
「自白」の任意性・信用性
捜査段階での不利益供述について、一審判決では、捜査員が母親に会わせることと引き換えになされた「約束による自供」にあたるとしたものの、任意性・信用性には影響がないとし、「倒れている被害者の側に立っていた」などの供述を事実と認定して、輿掛が犯人である決め手の一つとしていた。
控訴審判決では、まず、全体的な供述内容を、「被告人が被害者を殺したことは間違いないとしながら、犯行の動機はもとより、二〇三号室への侵入経路、強姦及び殺人の犯罪行為そのものに関しては、全く記憶がないという不自然なものである」と指摘し、一方で「倒れている被害者の状況に関する供述内容はあたかも死体発見当時の被害者の状況を撮影した実況見分調書の写真を見ながら供述しているかのようである。一読して、被告人の実体験に基づく供述であるか甚だ疑問である」。
また、「捜査官が、被告人が母親らの身の上を心配し、会いたがっていることを利用して、母親らと面会させる約束をし、実際に面会させたことの代償として不利益供述がなされたことは疑う余地がない」と認定し、「任意性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。
さらに、「捜査官が、被告人に対し、『お前の体毛が二〇三号室にあったという鑑定が出ている。』と決めつけて追及したこと」を「体毛鑑定の結果も、単に本件現場に遺留されていた体毛が被告人の体毛に類似するというにすぎず、被告人以外の者の体毛である可能性もあるわけであるから、本件体毛鑑定の結果をもって、被告人の体毛が二〇三号室にあったと決めつけて追及することは許されない」と捜査手法を厳しく批判し、「取り調べにおいて、被告人が心理的強制を受け、その結果虚偽の不利益供述を誘発された恐れが濃厚であるから、その任意性には疑いがあると言わざるを得ない」として輿掛の不利益供述の任意性を否定した。
不利益供述の信用性について、一審判決は、102号室の住民の水音に関する証言が輿掛の「二〇三号室から二〇二号室に戻り、風呂場で足を洗い、それから顔を洗った」とする供述と一致することなどから輿掛の供述の信用性を認めたが、控訴審判決では102号室の住民の証言について「一方において、二階の騒ぎは、男の人が女の人を追い掛け回しているような感じの音であった旨、微に入り細に入った情景を証言していること、他方において、前記のとおり、二階で水を流す音は、風呂場の音よりトイレの音の方がはっきり分かるとしながら、二〇三号室の騒ぎがおさまった直後二〇五号室でトイレの水を流しているのに、その水音には気づかなかった旨、不自然な証言をもしていることを併せ考えると」「(102号室の住民)は、事件の内容を知った上で、想像をも交えながら、あたかもすべてを経験して知っているかのように証言しているのではないかという疑いが濃厚であり、ひいては、全体的に真実を証言しているのか疑わしい点が多いといわざるを得ない」などとして102号室の住民の証言自体の信用性を否定し、この証言をもとに「被告人の供述に信用性を認めることはできないものと言わざるを得ない」との判断を下した。
そして、一審での不利益供述の維持については、「発熱して約三日間も食事がとれない状況下において深夜まで取調べがなされ、被告人の体毛が被害者方にあったと執拗に追及されて、被告人の自閉的内向的性格から心的破綻に陥り、記憶がないのは飲酒の結果であるかもしれないと考えるようになり、ついには『被害者方にいた。』と思い込むようになって、その旨の不利益供述をするに至ったものである」と確認した上で、「原審公判廷において不利益供述をするまでの間、被告人と弁護人との間に十分な打合せがなされなかったこと、そのため、不利益供述をするに至った動機、原因が前記のとおりであったにもかかわらず、これに対する吟味が十分にはなされず、その思い込みから解放される手段も講じられず、その機会もなかったこと、そして、被告人にとっては、弁護人らより捜査官であるTらの方が自分のために便宜を図ってくれているという印象が強かったことが認められるので、被告人としては、捜査段階と原審公判廷との間に質的な差異がなく、公判廷における供述であるからといって、その供述の信用性に影響を与えるほどの状況の変化はなかったものと認められる」「また、弁護人においても、被害者方にあった体毛が被告人に由来するかどうか、証拠に対する検討が必ずしも十分には行われていなかったこともあって、有罪ではないかとの心証を抱いており、そのため、原審第一二回公判期日においては、誘導によって、被告人の原審第一回及び第二回公判期日における不利益供述を肯定する旨の供述を引き出しているほどである」として、「公判廷における不利益供述であるからといって」「安易にその信用性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。
これらから、控訴審判決は、輿掛の不利益供述について「被告人が犯人であることの有力な決め手の一つであるとした原判決の判断は、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。
輿掛が物音などに気付かなかった点
控訴審判決は、近隣住民が聞いている203号室からの物音などに気づかなかったと話していたことが輿掛が犯人と疑われるきっかけの一つとなったとし、この点についても考察した。
控訴審判決では、「二〇三号室の近隣居住者らは、本件犯行当時の二〇三号室の物音や騒ぎに気づいているのであるから、隣室にいた被告人がこれに気づかなかったというのは、一応不自然なことのようにも思われる」としつつも、「被告人は、テレビの音量を大きくしたまま、うつらうつらしたり寝入ったりしていたというのであるから、そうであるとすれば、気づかなかったということも十分考えられるところである」とした。
また、輿掛が事件当夜23時前ころまで大音量でかけていたステレオの音を、近隣住民の多くが聞いているにもかかわらず102号室の住民はうたた寝していて気づかなかったと証言していることをあげ、「被告人が本件犯行当時二〇二号室にいながら二〇三号室の物音や騒ぎに気づかなかったとしても、このことをもって、被告人が犯人ではないかとの疑いを抱かせるほど不自然なこととは思われない」と判断した。
そして、控訴審判決は最後に「被告人が犯人でないことを示唆する事柄について」という章を立て、より踏み込んだ判断を下した。
被告人が犯人でないことを示唆する事柄について
近隣住民が「どうして」「教えて」という声を聞いていることや、「犯人は、深夜であるのに、二〇三号室に何らのいざこざもなしに入り得たようにうかがえる」ことから、「犯人は、被害者と親しく、かつ、信頼関係のある者ではなかろうかと強く推測される」と判示し、さらに、輿掛が警察官に「何しよるか」と声をかけたことや、この警察官や201号室の住民、新聞記者と言葉を交わした際も不審な様子はなく落ち着いた態度で対応していたことを、「強姦や殺人といった凶悪な犯罪を犯した直後の犯人の言動としては通常考え難い」とした。
控訴審判決は、単なる無罪判決にとどまらず別の真犯人の存在を示唆する完全無罪判決であった。
後に弁護団はこの判決を「望み得る最高の判決」と評した。
永松裁判長が判決言い渡しを終えると、法廷は再び大きな拍手と歓声に包まれた。
その中から、退廷しようとする永松裁判長の背中に向けて傍聴席からひときわ大きな声が上がった。
「裁判長! 私はあなたを尊敬します!」永松裁判長は一瞬その歩を止めたが、振り返ることなく法廷を後にした。
無罪判決後、福岡県弁護士会館で記者会見と報告集会が開かれた。
その後、輿掛と弁護団、支援者はすぐに大分に向かい、判決当日の19時30分から大分県労働福祉会館でも報告集会が行われた。
大分での報告集会には250名超が参加して、輿掛の完全無罪判決を祝った。
裁判後
時効成立
1995年(平成7年)6月30日の福岡高裁の無罪判決を受けて大分県警は、「裁判の当事者ではない」として記者会見は行わず、刑事部長が「捜査は適切に行われたと確信している」とする談話を発表した。
判決内容が警察の捜査を批判している点については、「詳しく判決文を読まないとわからない」とだけ述べた。
上告期限を翌日に控えた7月13日、福岡高等検察庁は上告を断念し、輿掛の無罪が確定した。
会見した福岡高検の次席検事は、捜査も起訴も理解できるとしながらも、「控訴審のように証拠評価されても仕方のない面もある。最高検とも協議した結果、記録の積み重ねで勝負する最高裁で二審判決を覆すのは、法律上不可能と判断した」と上告断念の理由を説明し、「争点となった輿掛さんの不利益供述(自白)が、不完全な形にとどまり、不明な点が多く、『自白』ととらえるべきではなかった。欲を言えばもっと完全な捜査をしてほしかった」と述べた。
検察がこのように警察を批判するのは異例である。
大分県警も無罪確定を受けて刑事部長がコメントを発表したが、「警察としては捜査を尽くした。現時点では捜査すべき事柄はないと考える」として再捜査は行わない意向を明らかにした上で、「二審無罪の判決を謙虚に受け止め、今後の捜査に生かしたい」と述べるにとどまった。
また、輿掛に対する謝罪の意思を問われると、「捜査は法律にのっとって行われたので、必要はないと考える。被害者のご家族には、精一杯捜査を行ったことをご理解いただきたい」と答えた。
12月6日、救援会の会員で大分県議会議員になっていた久原和弘が、県議会一般質問で大分県警本部長に対して輿掛や被害者家族への謝罪の意思の有無を問うた。
「高裁判決が厳しく指摘した杜撰かつ非科学的な捜査によって、輿掛さんは一生の一番輝かしい時期に鉄格子のなかに閉じ込められ、かけがえのない青春を無残にも奪われました。この間の本人と家族の苦労を思えば言葉もありません」「さらに、まだ時効まで一年近くあるというのに、警察当局は”県警としての捜査は尽くした。現時点で捜査すべき事柄はない“と述べています。かけがえのない我が子を無残にも奪われ、その無念の思いを、輿掛さんを犯人と信じ、憎むことでいやしてこられた被害者のご遺族のお気持ちを考えると、この談話には何とも言えぬやりきれなさを覚えます。この輿掛さんと被害者のご遺族に対しては、心からの謝罪と償いの意思表示が不可欠と思いますが、県警本部長のご見解をうかがいたい」と質す久原議員に対して、竹花豊本部長は、「適法かつ慎重にできる限りの捜査を行って検挙、送致した」と謝罪の必要はないとの考えを示し、報道を引用する形で、福岡高検次席検事も「捜査は適正で起訴も正しかったと、その談話の中で述べている」として、「高裁判決の内容については捜査機関として謙虚に受けとめ」「今後の捜査に生かしてまいりたい」と答弁した。
1996年(平成8年)6月28日0時、みどり荘事件は公訴時効を迎えた。
大分県警は「市民からの新しい情報提供はなかった」などとする刑事部長の談話を発表した。
これに対して輿掛は、「情報収集の努力をせずに、そういうことを言うのはおかしい」と批判した。
また、同志社大学教授の浅野健一も、「捜査当局は時効ぎりぎりまで精一杯の捜査を展開することで、公務員としての遺族への責任を果たすべき」と批判した。
被告人のその後
1995年(平成7年)8月3日、大分市内のホテルで「輿掛さんの完全無罪を祝い、新スタートを励ます会」が開催され、120名余りが参加した。
13年間を拘置所で過ごした輿掛は、太陽の下で体を動かして働きたいと自動車の運転免許を取得し、11月1日からは大分県特殊技能センターでフォークリフト・移動式クレーン・車両系建設機械など7つの特殊免許を取得して、1996年(平成8年)4月1日に大分市内の石材会社に就職した。
1999年(平成11年)、不況の影響で石材会社からリストラにあったが、その後は自らダンプカーを購入し、ダンプ運転手として働いた。
輿掛は、仕事のかたわらボランティア活動や労働組合運動にも積極的に関わった。
みどり荘事件をきっかけに大分県で始まった当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」、弁護団の弁護士が関わっていた労働組合「大分ふれあいユニオン」、「HIV患者を支える会」や「ハンセン病国家賠償訴訟を支える会」などで活動し、大分ふれあいユニオンでは書記次長、ハンセン病国家賠償訴訟を支える会では事務局長を務めた。
1996年(平成8年)5月26日、輿掛の社会復帰を見届けた救援会は総会を開き、当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」に発展させることを決めて解散した。
弁護団は、1997年(平成9年)に、みどり荘事件の弁護活動をまとめた『完全無罪へ13年の軌跡-みどり荘事件弁護の記録』を出版した。
評価・影響
裁判自体に対する評価
ノンフィクション作家の小林道雄は、著書の中で一審判決を評して「裁判官は法廷の雛壇に目を開けて座ってはいただろう。だが、その目ははたして覚めていたのかどうか」と述べて『夢遊裁判』と名付けた。
この言葉は、みどり荘事件の裁判を表す言葉として広く人口に膾炙した。
弁護団の安東弁護士は、控訴審判決を「望み得る最高の判決」と評価したが、小林は「私としてもそうは思う」としつつ、控訴審判決の中の二つの点は受け入れがたいとしている。
一点目は、控訴審判決が輿掛の不利益供述の任意性を否定する論拠の一つとして、輿掛が「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向がある」と指摘した点である。
小林によれば、代用監獄で厳しい取り調べが行われれば誰でも容易に虚偽自白に追い込まれかねないのであって輿掛の心理特性が原因ではないとし、また、控訴審判決が採用した輿掛の心的特性は起訴前の精神鑑定が「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」として認定したものであり不当なものであると指摘している。
この点については、心理学者の浜田寿美男も「真っ白無罪の『最高の判決』に一点、汚点が染みているよう」と述べている。
二点目は、一審での輿掛の不利益供述の維持について、輿掛と弁護団の意思疎通が不十分で「不利益供述に対する吟味が十分になされず、その思い込みから解放される手段も講じられ」なかったとした点である。
弁護団が控訴審で痛烈な自己批判を展開した成果ではあっても、一審の無期懲役判決は「あまりにも愚かな一審裁判官の質にあった」のであって、弁護団の責任であったかのような表現には抵抗があるとしている。
また、久留米大学准教授の森尾亮らは、一審判決の事実認定は警察や検察の立てたストーリーを事実に基づかずに「あり得べからざることではない」と単に主観的に同意しただけのものに過ぎないと批判し、一審判決が有罪の根拠とした事実認定を否定した控訴審判決をすぐれた判決として高く評価している。
ただし、控訴審がその判決を下すまでに6年3か月を要していること、203号室に輿掛の指紋がなかったことに触れていないことを控訴審の問題点として指摘している。
DNA鑑定に関する批判
みどり荘事件は、裁判所の職権でDNA鑑定が実施された日本で最初の裁判となった。
鑑定人である三澤教授らは、10年以上前の試料の分析方法としてDNA鑑定の中でも最先端といえたマイクロサテライトを用いたACTP2法を採用した。
それまで日本ではACTP2法によるDNA鑑定が行われたことはなく、マイクロサテライトを用いたDNA鑑定自体が日本では初めてであった。
この鑑定は控訴審判決で信用性を否定されたが、弁護団などは、それ以前の問題として、こうした発展途上の技術を刑事鑑定に用いたことを批判している。
すなわち、被告人の運命を左右する刑事鑑定においては、仮説と実験を繰り返す科学研究とは違って間違いは絶対に許されないのであるから、鑑定の基礎となる理論が専門家の間で広く承認されており、かつ、鑑定手段も技術的に確立されたものである必要があり、未成熟な先進的な技術を採用することは許されないとする批判である。
この点について一橋大学の村井敏邦教授は、「刑事裁判は実験場ではない。むしろ、そのような実験場とはもっともほど遠いところにあるべきものであり、最も保守的な場であることにこそ意味があるとさえいえる」と述べている。
弁護団は、三澤教授らの鑑定に対する姿勢を「科学研究と刑事鑑定の違いをわきまえないもの」「犯罪の成否を左右するという、鑑定人としての社会的責任を自覚してなかった」と批判している。
また、みどり荘事件では、弁護団が鑑定人に鑑定資料を提出させることで、鑑定の経過や手法を検証することができた。
もしそうでなかったなら、DNA鑑定の結果をもって科学の名のもとに冤罪が継続する可能性があった。
このことから、こうした先進的な科学技術を刑事裁判で採用する際には、鑑定結果を盲信するのではなく、具体的な鑑定経過の資料を開示させて、裁判に関わる法律家が信頼性を自ら判断できるようにすることが必要であると指摘されている。
報道に対する批判
大分合同新聞本社(1995年竣工)
1981年(昭和56年)6月30日に輿掛が2回目の事情聴取を受けて以降、マスメディアは輿掛を重要参考人として犯人視する報道を続けた。
支援者らによれば、こうした報道は地元紙の大分合同新聞が最もひどかったという。
大分合同新聞は、6月30日の夕刊で「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」という見出しで「Aに対する二十九日までの事情聴取の中でも、Aの主張するアリバイには確固とした裏付けがなく、捜査本部ではAの追及に全力を挙げている」と報じたのに始まり、7月9日には「捜査難航-乏しい物証-交友関係者はシロ?」として「捜査本部では、すでに重要参考人として事情を訊いた大分市内の若い会社員を依然マークして身辺捜査を続ける」とする記事を載せ、7月30日には「捜査に焦りの色も」と題して「捜査開始当初から捜査本部が強い疑惑を捨てていない人物が大分市内の会社員Aだ」とし、隣室にいながら物音を聞いていないと主張していることや新しい傷があったことなど「多くの不審点が浮かんでおり、身辺捜査を通じて出てきた関連情報からも疑惑は消えていない」と報じた。
さらに、9月27日には「詰めの捜査へ-消去法で絞り込む」という見出しで捜査本部長である藤波重喜大分署長のインタビューを載せ、この中で輿掛について聞かれた藤波署長は、「特定の人物については逮捕もしていないのにどうこう言うことはできない」としつつも「これまでリストアップした中に犯人が必ずいる」と語っている。
逮捕当日の1982年(昭和57年)1月14日には、大分合同新聞の朝刊に「”隣室の男”逮捕へ」の大見出しの下、「女子短大生殺人事件 体毛、血液型が一致 大分県警が断定」「事件直後、新しい傷」に続き、小さく「本人は否認のまま」という見出しが紙面に踊った。
記事では、202号室で他の女性と同棲していた「大分市内の会社員A」の逮捕令状を請求と報じていた。
その日の夕刊では、手錠をかけられて連行される輿掛の写真を大きく載せて「ホテル従業員逮捕」「執念……7カ月ぶりに-ムッツリした犯人・輿掛」と報じ、翌15日の朝刊では、「けさから本格追及-短大生殺しの輿掛 いぜん否認続ける」の見出しで「是が非でも輿掛を自供に追い込む構え」「輿掛はふだんはおとなしいが、酒を飲むと狂暴になるタイプ」などと報じた。
そして、1月22日の朝刊では、輿掛の「自供」を発表する藤波署長の写真を載せ、「輿掛やっと自供」「『私に間違いない 恋人とけんか……カッと』」[78]「良心ゆさぶる説得で……」の見出しの下、「事件直後の捜査本部による数回の取調べに対して、ふてぶてしいほどに犯行を否認し続けた輿掛も、捜査本部の長期にわたる執念の捜査によって得た体毛の鑑定結果やその他多くの状況証拠の前に屈した」「二一日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と犯行を全面的に自供した」「この自供により、難事件といわれた女子短大生殺人事件は七カ月ぶりに一気に全面解決へ向かう」と報じた。
また、犯行の動機として、輿掛が「恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。
そこへ(被害者名)が帰ってきたので……」と供述しているとされたが、そのような供述調書は存在しない。
逮捕までは匿名ではあったが、狭い地域社会では誰のことかは周知のことであり、輿掛はもとより親類までが報道被害を受けた。
輿掛によれば、報道後、母親はパートや銭湯にも行きづらくなり、逮捕後は長姉の元に引き取られたが、その姉たちも嫁ぎ先で肩身の狭い思いをし、うち一人は離婚している。
珍しい姓であったため「輿掛」の名前では仕事につけず、嫌がらせ電話が絶えないため電話番号を変えて電話帳にも載せないようにしたという。
当時のマスコミのこうした報道姿勢に対して、弁護団は、推定無罪の原則を尊重する姿勢に欠け、自白偏重の捜査など権力の行き過ぎをチェックするマスコミの使命は全く見いだせないとし、これらの記事を読んだ近隣住民などの証言や裁判官の心証に大きな影響を与えることになったと批判している。
ノンフィクション作家の小林道雄も、こうした警察発表を垂れ流すだけの報道は裁判官に予断を生じさせることになり、起訴状一本主義は有名無実と化すとし、「輿掛さんを犯人にしたのは、警察・検察・一審裁判所の三者であり、それに加えてマスコミが輿掛さんを抹殺しようとした。この四者すべてが謝罪していない」「この四者の中でマスコミはいち早く謝罪し、他の三者にも謝罪するように迫るべきだ」と主張している。
1995年(平成7年)6月30日の無罪判決を受けて、大分合同新聞は翌日の朝刊で「DNA鑑定の信用性否定」「『別に真犯人』を示唆」と報じ、「『科学鑑定』に警鐘 自白偏重にも反省促す」とする解説記事を掲載した。
他社も、「現代型冤罪」「自白偏重主義」「危険な予断捜査」「真犯人像を示す」などと警察を批判する記事を掲載した。
西日本新聞は、時効成立前日の1996年(平成8年)6月27日から5日間、当時の報道姿勢に対する自戒を込めた「時効 それぞれの15年」という記事を連載した。
しかし、当時の報道について輿掛に謝罪した報道機関はなかった。
みどり荘事件の報道を検証した同志社大学教授の浅野健一らによるアンケートでは、報道各社は輿掛に謝罪しない理由として「謝罪の要求を受けていない」などとした。
しかし、輿掛や弁護団などは、「自分に非があるとわかっているのなら、こちらから謝罪の要求をしなくとも自主的に謝るのが常識だ」として、自発的謝罪を求めている。
また、大分合同新聞は「輿掛さん本人がいったん自白した」ことを謝罪しない理由の一つとしたが、これに対して浅野教授らは、公判記録から輿掛の供述が「自白」とは呼べないことは明白であると批判している。
弁護団は、報道機関に対して、輿掛が無実であったことを根気強く報道し、読者の誤解を解くよう努力する責任があると主張している。
浅野教授らも、地方の事件では地元のメディアの影響力が大きくそれだけ責任も重いとして、大分合同新聞が率先して謝罪と検証を行って輿掛や家族の社会復帰を支援するのが地元メディアの役割であると提言している。
浅野教授は、著書の中で「みどり荘事件報道の検証を怠り、報道改革に努力しないマスコミ人はジャーナリストの名に値しない」と述べている。
当番弁護士制度の創設
徳田弁護士は、みどり荘事件での起訴前からの弁護活動に大きな悔いを抱いていた。
それは、「もし、逮捕直後からついていて連日の接見を必ず確保していたら、あんな自白は絶対になかった」「輿掛さんとの意思疎通がうまく行かず、報道に影響されて、弁護団も輿掛さんが現場にいたのは間違いないと思ってしまった。逮捕直後の弁護活動がいかに重要かを再認識させられた」という反省であった。
このみどり荘事件の反省に立って、徳田弁護士は「起訴前弁護はあらゆるケースに必要ですが、否認事件には特に徹底的に保障されなければならない」「なんとしてでも自分たちが先頭に立って当番弁護士制度をやり抜かなければ」との決意のもと当番弁護士制度の発足に奔走し、1990年(平成2年)9月14日、大分県弁護士会が日本で初めての当番弁護士制度「起訴前弁護人推薦制度」をスタートさせた。


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