みどり荘事件 前編

1981年06月27日土曜日

みどり荘事件(みどりそうじけん)は、1981年(昭和56年)6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。
大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。
隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。
控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年(平成8年)6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、当番弁護士制度創設のきっかけになった事件、また、被疑者や家族に対する報道被害事件としても知られている。


概要
1981年(昭和56年)6月27日から28日にかけての深夜、大分県大分市のアパート「みどり荘」で女子短大生(当時18歳)が殺害された。
血液型B型の血液を含む血液型A型の唾液が検出され、被害者の血液型はA型であることから、この血液は犯人のものと推定された。
事件から約半年後の1982年(昭和57年)1月14日に、血液型B型だった隣室の輿掛良一(当時25歳)が被疑者として逮捕された。
輿掛は捜査段階や公判の初期において被害者の部屋にいたことを自白していたが、裁判途中から供述を翻して無実を主張。
しかし、1989年(平成元年)3月の第1審判決では、自白と科学警察研究所(科警研)の毛髪鑑定などから無期懲役の有罪判決が出された]。
控訴審では、科警研の毛髪鑑定や福岡高等裁判所が職権で採用したDNA型鑑定といった犯行現場で採取された体毛と輿掛の体毛が一致するとした鑑定結果などについて多くの批判や矛盾が指摘され、1994年(平成6年)8月に日本の殺人事件では異例の保釈がなされた。
1995年(平成7年)6月30日には無罪判決が出され、同年7月13日に福岡高等検察庁が上告を断念し、7月14日に確定した。
事件発生から14年が経過していた。
控訴審の判決理由では、輿掛以外の真犯人の存在が示唆されている。
無罪判決から殺人罪の公訴時効成立(当時は15年)まで約1年あったが、捜査機関である大分県警察は再捜査を行わず、1996年(平成8年)6月28日に時効が成立した。
事件発生
事件現場となったのは、大分県大分市六坊町(現六坊南町)にあった2階建てアパート「みどり荘」である。
大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)のすぐ北にあり、同短大の学生をはじめ若い女性が多く住んでいた。
間取りは、西側にある玄関のドアを開けると狭いタタキと3畳ほどの台所、その奥が東向きに窓のある6畳の和室で、玄関を入って左右に風呂とトイレであった。
各階4室の計8室(101・102・103・105・201・202・203・205)があり、南側(1号室側)に金属製の外階段がついていた。
被害者の女性は203号室に住む同短大1年の女子学生で、同短大2年の姉とともに暮らしていた。
1981年(昭和56年)6月27日、姉妹は、所属する短大の音楽サークルと大分工業大学(現日本文理大学)の学生とのジョイントコンサートに参加し、終了後の打ち上げにも揃って参加した。
22時30分ころに1次会が終わり姉は2次会へと向かったが、被害者は「お風呂に入りたい」という理由で断った。
ほかの女学生も含めた3人と一緒に男子学生に送ってもらい、みどり荘近くの交差点で「すぐそこだから」と23時15分ころに彼らと別れている。
男子学生は残りの女学生を送ったあと、23時30分ころに2次会に合流した。
事件は、被害者が帰宅後、入浴のために風呂のガスに火をつけた直後に発生したと思われる。
日付が変わる前後、みどり荘や付近の住民は、「誰か助けてえ」という女性の悲鳴と、それに続いてドタンバタンという物が倒れたり誰かが誰かを追い回すような音を聞いている。
しばらくすると普通の会話の声で「教えて」「どうして」などという言葉が聞こえたが、その後再びドスンドスンという音が続いたという。
一方、姉が参加していた打ち上げの2次会は、被害者らを送っていった男子学生が戻ってほどなくお開きとなった。
姉は自室に泊めるつもりだった友人女性と一緒に男子学生らにみどり荘まで送ってもらい、6月28日0時30分過ぎに男子学生らと別れた。
階段を上がり、ドアの鍵を開けようとしたが、203号室の鍵はかかっていなかった。
ドアを開けると台所と6畳間の電気はついたままであり、煌々とした明かりの下で台所に横たわる妹を見つけた。
上半身はTシャツを着ていたが胸までまくられ、下半身は裸、首にはオーバーオールが巻きつけられ、口からわずかに舌を出している顔を見て、すぐに姉は妹が死んでいることを理解した。
姉と友人女性は警察に連絡してもらおうと送ってくれた男子学生らを探しに戻ったが見当たらなかったため、近くに住む別の男子学生のアパートを訪ねて事情を説明し、この男子学生が近くの公衆電話から0時51分に警察に通報した。
捜査
初動捜査
6月28日1時ころに一人の巡査がいち早く現場に到着した。
巡査は遺体を確認したあと、両隣の住民の話を聞こうとドアを叩いたが、205号室は電気も消えており、202号室は電気はついていたものの誰も出てこなかった。
その後、みどり荘前の空き地を捜索していたところ、202号室の窓から男に「なにしよるか!」と声をかけられた。
巡査は202号室に向かい、男に203号室で殺人事件が発生したことを伝え、何か物音を聞かなかったか聞いたが、男の返答は「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」とのことであった。
事件現場となった203号室の現場検証では、室内に犯人と被害者が争った跡は見られたが、金品を物色したような形跡はなかった。
また、室内に土足の跡もなかった。
遺体の膣内と陰毛から精液が採取され、陰毛に付着していた精液は血液型B型の人物のものと判明した。
6畳間からは経血のついた下着(被害者は生理中だった)と、乳白色に薄紅色が混じった液体が発見され、この液体は血液型B型の血液を含む血液型A型の人物の唾液であった。
被害者の血液型はA型であり、被害者が加害者に噛みついて吐き出したものと推測された。
そのほか室内から人毛と姉妹以外の指紋が多数採取された。
検死の結果、死因は、手で首を圧迫したあと被害者のオーバーオールで首を絞めつけて絞殺した窒息死と確認された。
夜が明けると聞き込み調査の範囲が広げられ、近隣住民からの証言が得られた。
201号室の住民は、「22時ころベッドに入ったが、隣の202号室から大きなステレオの音がして寝付けなかった。しばらくして小さくなったので寝付いたが、アパートのどこかの部屋から聞こえるドタンバタンという音で目を覚まし、そして、バターンという人が倒れるような音を聞いた。その合間に女性の声が聞こえ、小さな声だったが『どうして、どうして』と言っているのは聞こえた」という話をした。
みどり荘から空き地を挟んだ東側に住む住民も、「23時ころに床についてからしばらくして、『どうして』『教えて』といった女性の声を聞いた。その後、みどり荘2階からドタンバタンという音が2、3回聞こえた」という旨を証言した。
また、事件現場である203号室の北隣の205号室の住民からは、より詳しい証言が得られている。
彼女によれば、
「当日は23時40分ころ、部屋の電気をつけたまま眠りにつき、どれくらい経ったころか分からないが、『きゃー』『誰か助けてぇー』という女性の悲鳴で目が覚めた。
物が倒れるような音も聞こえた。
どこかの部屋に痴漢でも入ったのかと思い、隣室の203号室の人に聞いてみようとパジャマのまま部屋を出て203号室のドアをノックしたところ、中から女性の悲鳴が聞こえたので、驚いて慌てて自室に戻り、頭からタオルケットをかぶってベッドに入った。
『ううっ』という声も聞こえてきたので不安になったが、そのあとは普通に話す声が聞こえてきたので、ふざけていたんだろうと安心して、トイレに行って再びベッドに入った。
しかし、しばらくするとドスンドスンという音とともに『神様お許しください』と泣き叫ぶ声が1、2分にわたって10回程度繰り返し聞こえた。
そして、再び静かになったが、しばらくして押入れの方からカタカタという音が聞こえてきたので怖ろしくなり、実家に帰ろうと着替えて部屋を飛び出した。
その際、木のツッカケを履いていたので、金属製の外階段はカンカンと甲高い音を立てた。
短大の前の公衆電話から実家に連絡し、続けてタクシーを呼んで実家に帰った。
タクシーに乗ったのは0時40分ころ、最初に女性の悲鳴を聞いて目を覚ましたのは、それより15分か20分くらい前だと思う」
ということであった。
こうした情報からは、犯人は、深夜に被害者を訪ねても部屋に入れてもらえる程度の面識がある人物と思われた。
6月29日の大分合同新聞も、犯人が土足で侵入した形跡がないことやドアの鍵が壊されていないことなどから「顔見知りの犯行か」と報じた。
しかし、容疑者として捜査線上に浮上したのは、こうした犯人像とは異なる人物であった。
被疑者
被疑者として浮上したのは、事件現場の隣室202号室に住む輿掛良一であった。
輿掛は1956年(昭和31年)5月9日、大分県大野郡大野町(現豊後大野市)に生まれた。
実家は農家であった。
第4子として生まれた長男であったため可愛がられて育ち、幼いころは明るく活発な子どもであったという。
しかし、小学校4年生の時に父が糖尿病となって入退院を繰り返すようになると生活は一変し、中学に入ると、母が父の看病のために大分市に移ったため、姉の2人との3人暮らしとなった。
中学校2年生の2学期からは不登校となり、その際に自閉精神病質と診断されて投薬治療を受けている。
翌年、母親と大分市内のアパートに一緒に住むようになって大分市立王子中学校に転校。
1年遅れで中学を卒業して大分電波高等学校(現大分国際情報高等学校)に進むと、同校で知り合った友人とバイクを乗り回すようになった。
高校時代には恋人もできている。
高校もさらに1年遅れで卒業したあとは航空自衛隊に入隊し、初期教育が終わると1977年(昭和52年)8月に築城基地に配属された。
新入隊員としてただ一人銃剣道の基地代表の一人に選ばれた輿掛は、先輩から特に目を掛けられて世話になっている。
しかし、1980年(昭和55年)1月13日、飲酒運転で車が大破するほどの事故を起こし、輿掛自身は鎖骨の骨折で済んだが、自衛隊は退職せざるをえなかった。
その後、いくつか職を転々としたあと実家に戻り、同年10月1日から市内のホテルに飲料部のウェイターとして働き始めた。
なお、同年9月には父が亡くなっている。
高校時代からの恋人とすでに別れていた輿掛は、同じホテルの洋食店で働く恋人ができた。
相手は高校を卒業したばかりの19歳で、彼女は、身長170センチ・体重65キロでのっそりとしたところのあるパンチパーマの輿掛のことを「おっさん」と呼んでいた。
この新しい恋人の女友達が、偶然にも輿掛の高校時代からの友人の交際相手で、2人はアパートを借りて同棲していた。
新しい恋人に「私たちも一緒に暮らしたい」とせがまれた輿掛は、1981年(昭和56年)4月20日からみどり荘の202号室で同棲を始めた。
二人の交際・同棲は、双方の親も公認の仲であった。
事件のあった前日の1981年(昭和56年)6月26日は輿掛も恋人も早番勤務で、15時に勤務が終わって友人も含めて3人でパチンコに行ったあと、友人宅や喫茶店に寄って深夜に帰宅し、セックスをして寝た。
翌6月27日は二人とも休みで、昼ころに一度起きてセックスをして再び眠り、15時ころに起床している。
恋人が一緒に夕食の買い出しに行こうと誘ったのを輿掛が断ったことを発端に口論となり、恋人が以前から不満であった生活費のことで言い争いになったあげくに、恋人は実家に帰ると言って部屋を飛び出して行ってしまった。
口喧嘩はしょっちゅうの二人ではあったが、部屋を出て行ったのは二人が同棲してから初めてのことであった。
事件当夜、輿掛は恋人が出て行った部屋に一人でいた。
そして、事件現場の北隣の205号室の住民だけでなく、201号室や空き地を挟んだ住宅の住民も大きな音を聞いているにも関わらず、南隣の202号室の輿掛が「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」というのは不自然であった。
さらに、事件の数日後には、102号室の住民が「ドタンバタンという音がしなくなったあとで、201号室か202号室の風呂で水を流す音を聞いた」という内容を証言している。
任意の取り調べ
事件直後に駆け付けた巡査に対して「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」と答えた輿掛は、その直後、騒ぎに気付いて顔を出した201号室の住民に殺人事件があったことを伝えている。
そして、輿掛は巡査の許可を得て公衆電話に行き、恋人の実家に電話を掛けた。
電話に出たのは恋人の母親であったが、恋人はすでに寝ているとのことだったので、恋人の母親に事件のことを伝えて電話を切った。
また、みどり荘に戻る途中で新聞社の記者からの取材を受けている。
その後、部屋に戻った輿掛を、大分県警察本部捜査一課強行犯特捜係長のT警部補が訪ねて任意同行を求めた。
これに応じた輿掛は、4時30分ころから6時30分ころまで大分警察署(現大分中央警察署)で事情聴取を受けた。
輿掛の供述によれば、恋人が部屋を出て行ったあとは、
「肉とキャベツ、ウイスキーを買いに行って肉野菜炒めを作り、これをつまみにナイターを見ながらビール1本とウイスキーを飲んだ。ウイスキーは水割りにしてボトルの1/3ほどを飲んだ」
「そのまま寝てしまい、気付くとナイターは終わっていたので、ステレオで長渕剛のレコードをいつもより大きな音でかけた」
「聞きながらまた寝てしまい、次に気付くとレコードは終わっており、テレビは映画をやっていて、酒場やドイツの軍人が螺旋階段を下りてくる場面だった」
ということであった。
事情聴取の最後に、体に傷がないか入念に調べられ、T警部補は輿掛の首と胸、左手甲の傷を見咎め、何の傷か問いただした。
輿掛の答えは、首の傷については覚えがなく「虫に刺されて引っ掻いたのかもしれない」、胸と左手甲の傷については「仕事中にビールラックを運ぶ時についた傷だと思う」というものであった。
帰宅した輿掛は、心配しておにぎりを手に駆け付けた恋人に昨夜からのことを説明し、早出勤務を13時の定時出勤に変更してもらい、ひと眠りして職場に出勤した。
夕方には職場をT警部補が訪れ、改めて輿掛の傷を確認したほか、恋人から実家に帰った経緯、他の同僚から仕事中の怪我について話を聞いている。
T警部補は、翌々日の6月30日にも再度任意の事情聴取を行った。
この日の聴取は10時から22時に及び、午前中にポリグラフ検査を行い、毛髪4本を任意提出させた。
この事情聴取を受けて、大分合同新聞はこの日の夕刊で、匿名ではあったが「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」と報道した。
この報道によって、輿掛は勤務先から「一応預かりだから」と辞職願を書かされた上で、休職扱いとなって自宅待機を命じられている。
その後も、7月11日・7月12日・7月15日とT警部補による任意の事情聴取が続けられたが、輿掛は「酒を飲んで寝ていたので何も覚えていない」と繰り返すだけだった。
7月11日の事情聴取では左手甲の写真撮影と当日着ていた下着等の任意提出、7月15日には毛髪10本を任意提出させている。
しかし、次いで7月末ころに行った事情聴取の場で輿掛がこれ以上の聴取に応じることを拒否したため、これ以降、任意の取り調べができなくなってしまった。
それでも9月14日には、身体検査令状と鑑定処分許可状に基づいて陰毛10本を提出させるなど輿掛への捜査は続いていた。
しかし、逮捕に結びつくような直接的な証拠を得ることはできなかった。
なお、事件後、輿掛と恋人は同棲を解消してそれぞれ親元に戻り、7月11日にはみどり荘の部屋を引き払っているが、二人の交際は続いていた。
逮捕
大分市内では、同年12月に連続放火事件が発生。
また、同年10月に発生した銀行から500万円が強奪された強盗事件も未解決のままであった。
市民・マスコミの警察に対する視線は厳しく、みどり荘事件の解決には警察の威信がかかっていた。
そんな中の12月11日、輿掛が同僚4人とともにタクシー運転手に暴行するという事件が発生した。
輿掛は8月1日に勤務に復帰していたが、当日は輿掛の勤めるホテルのボーナス支給日で、5人は酒に酔った状態であった。
警察はその場で輿掛だけを暴行容疑で逮捕した。
あからさまな別件逮捕ではあったが、輿掛が任意の取り調べを拒否する以上、警察としては何とか身柄を確保したかったのだと思われる。
ところが事件の翌朝、輿掛の職場の労働組合が依頼した大分合同法律事務所の古田邦夫弁護士が介入。
示談書や嘆願書を取りまとめ、「酔っていて覚えていない」としぶる輿掛を「認めれば出られるから」と説得して、輿掛は罰金2万円の略式命令で1週間で釈放された。
しかし、輿掛には「弁護士は自分の話を聞いてくれない」という不満だけが残った。
12月28日、科警研から待ちに待った報告が大分県警に届いた。
毛髪鑑定の結果、被害者の部屋に残されていた体毛のうちの3本が輿掛のものと同一であるというものであった。
ようやく物証を手に入れた警察は、輿掛逮捕に向けて動く。
年が明けて1982年(昭和57年)1月14日、大分合同新聞は、朝刊1面で「“隣室の男”逮捕へ 体毛、血液型が一致 大分署が断定」「事件直後、新しい傷」と報じた。
この日の午前中、自動車教習所にいた輿掛に、恋人から「おっさんが逮捕されると新聞に出ている」と電話が入った。
「支配人が連絡するように言っている」ということであったので連絡して支配人室に出向くと、再度預かりとして退職届を書かされて自宅待機を命じられた。
輿掛は、記事を見た母親が心配していると思い急いで自宅に帰ったが、母親は不在であった。
同日12時50分、輿掛は、心配して自宅を訪ねてきた高校時代からの友人と自宅にいたところを、T警部補によって逮捕された。
新聞記事を見て集まっていた多くの報道陣や野次馬が見守る中、輿掛は大分警察署に連行された。
その日の大分合同新聞の夕刊は、「ホテル従業員逮捕、執念……7カ月ぶりに」「ムッツリした犯人・輿掛」という見出しと、連行される輿掛の写真を大きく掲載した。
警察は、逮捕当日から、T警部補と大分警察署刑事一課第一強行犯係長のH警部補を中心に2つのチームを作って交替で輿掛を追及した。
逮捕当初は逮捕前と同様「酒を飲んで寝ていたので何も覚えていない」と容疑を否認していた輿掛も、厳しい取り調べの前に1月18日午前に至ってついに自白した。
大分警察署長の発表を受けて、1月22日の大分合同新聞朝刊には「輿掛やっと自供」「『私に間違いない 恋人とけんか…カッと』良心ゆさぶる説得で…」の見出しの下、
「21日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と全面的に自供した」
「『恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。そこへ(被害者名)さんが帰ってきたので……』と供述しており、犯行は発作的なものであったとみられている」
という記事が載った。
輿掛は、1月30日から3月10日まで市内の仲宗根精神病院で精神鑑定を受けた。
鑑定では、まず、分裂病または分裂病質についての検査を行ったが、結果は「正常」であった。
次に、異常酩酊の可能性を確認するために事件当夜と同量の酒量を与える飲酒実験が4回行われたが、結果は寝てしまってなかなか起きないというだけの通常酩酊であった。
さらに、夢遊病についての観察も行われたが、それも確認できなかった。
最後に、心因性健忘を疑い、麻酔面接が試みられたが、健忘の兆候も認められなかった。
これらから「内向的かつ消極的」で「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向にある」ものの「精神障害や健忘は存在しない」との鑑定結果を得た上で、輿掛は3月15日に強姦致死・殺人の罪で起訴された。
起訴前弁護
1981年(昭和56年)12月の輿掛の暴行事件の弁護を担当した古田邦夫弁護士は、その後も輿掛のことが気になっていた。
暴行事件については、もともとは輿掛の勤務するホテルの労働組合から依頼を受けた事務所の先輩弁護士の都合で代わって対応しただけのものではあったが、みどり荘事件を追及するための別件逮捕と感じた古田弁護士は、違法捜査を止めるためにとにかく輿掛を早く釈放させることを優先して1週間での釈放を実現していた。
その際に輿掛から、みどり荘事件について「やっていない」と聞いていただけに、輿掛逮捕の報道に接して「別件とはいえ一度弁護をした者として会いに行くべきではないか」と考えていた。
逮捕の翌々日の1982年(昭和57年)1月16日、古田弁護士は、まだ本人からも家族からも依頼されていなかったが、「弁護人となろうとする者」として自白前の輿掛と面会した。
そこでも再度「やっていない」という輿掛の言葉を確認し、金銭面から「うん」と言わない輿掛に、とりあえず弁護人選任届を書くだけ書かせて、その日の面会を終えた。
当時の古田弁護士は登録2年目で、否認している輿掛の刑事弁護を一人で担う自信はなかった。
事務所で相談したところ「外部の弁護士と組んだ方が良い」という結論になり、1月18日に改めて外部の先輩弁護士とともに輿掛と接見した。
しかし、その場で輿掛から出たのは、家族との面会と引き換えに「たった今、隣の部屋にいたと認めた」という言葉であった。
先輩弁護士には否認事件として協力を依頼した手前もあって、古田弁護士は接見を短く切り上げ、二人で弁護にあたるという話も立ち消えになった。
古田弁護士は、1月20日・1月22日にも輿掛と接見したが、否認事件でなくなった以上、家族の経済的な負担を考えても国選弁護にしたほうが良いのではないかと考え始めていた。
1月23日、大分地方裁判所の弁護士控室で、古田弁護士は徳田靖之弁護士から声を掛けられた。
徳田弁護士は、古田弁護士の小・中・高校の8年先輩にあたり、司法修習生時代から親しくしていた。
みどり荘事件について聞かれた古田弁護士は、率直に国選弁護にすべきか悩んでいると答えた。
しかし、徳田弁護士の考えは違った。
被疑者は自閉症との報道もあり、事件の経緯からは異常酩酊の可能性もあるので、責任能力の有無で争うことになる可能性もあり]、起訴前の弁護活動を続けるべきだ、というものであった。
そして徳田弁護士は、自分が一緒に弁護人になっても良い、と申し出た。
こうして二人は1月25日に輿掛の長姉に会って着手金を受け取り、正式に家族の依頼による輿掛の弁護人となった。
しかし、徳田弁護士が起訴前に輿掛と接見したのは1月27日と1月29日の2回だけだった。
前述の通り、輿掛は1月30日から3月10日まで精神鑑定のために鑑定留置に出された。
これには、異常酩酊による心神喪失ないし心神耗弱を推定していた弁護側としても異論はなかった。
鑑定結果は「精神障害や健忘は存在しない」であったが、3月10日に接見した古田弁護士は、鑑定から戻った輿掛から驚くべき話を聞く。
「注射をされて尋問された」というのである。
古田弁護士は直ちに徳田弁護士に相談して「鑑定留置先で自白誘導剤が使われた可能性があり、その影響が残っている状況下での取り調べは問題があるから至急留置場所を拘置所に移すように」と大分地裁に上申した。
これが認められ、3月13日に輿掛は大分警察署内の留置場から拘置所に移送された。
第一審
罪状認否
大分地裁における初公判の期日は1982年(昭和57年)4月26日に決まり、その約10日前に弁護団に対して関係書類の開示が行われた。
この時初めて輿掛の供述調書を見た弁護団は、驚き困惑した。
新聞報道等では「全面自供」と報じられていたにもかかわらず、輿掛の供述は、「気付いたら203号室で被害者の遺体のそばに立っていた」、侵入経路や犯行状況は一切覚えていないが「自分が犯人に違いない」というとても「自白」とは呼べないようなものであった。
弁護団は、この中で精神鑑定書に記された麻酔面接に注目した。
麻酔面接で用いられたのは、ナチスが自白剤として使用したことで知られているイソミタールであった。
輿掛は、3月6日にイソミタール10%溶液5ccを注射されて医師の面接を受け、この麻酔下の面接で、
「物音に気付いて隣の部屋に行ったら被害者が倒れていた」
「玄関の明かりはついておらず、和室の明かりはついていた。被害者は台所に倒れており、首には何か白いものが巻かれていて、顔は白い布のようなもので覆われていた。下半身は裸だったんじゃないかと思う。寝ているならセックスしようと被害者の下半身を触ったが、死んでいるのに気付いて慌てて自室に帰った」
という内容を話した。
そして、2日後に行われた麻酔の影響のない通常の面接でも概ねこれを認めている(ただし、これについては鑑定後の警察官の取り調べに対して「そのような覚えはない」と否定している)。
これが事実であるとすると、犯行状況を覚えていないという輿掛の供述はもっともであったし、現場から輿掛の体毛が発見されたことも説明がつく。
弁護団は、イソミタール面接での輿掛の供述を軸に、強姦・殺人については証拠がないとして無罪を求める弁護方針を立てた。
初公判を翌々日に控えた4月24日、古田・徳田両弁護士は輿掛と接見し、徳田弁護士は輿掛に「君は酒を飲んで寝ていて記憶がないということなのでベストを尽くして弁護するが、審理の中で君が犯人だと明らかになった時には潔く極刑に服してほしい」ということを伝えた。
輿掛は、「その時は覚悟しています」と答えた。
4月26日、大分地裁で第1回公判が開かれた。
輿掛は罪状認否で「被害者の部屋にいたことは覚えているのですが、自分がやったという記憶がありませんので、はっきり分かりません」と述べ、弁護団も意見陳述で「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます」と主張した。
この罪状認否について、続く第2回公判で、近藤道夫裁判長から改めて「被害者の部屋に『行った』ことを覚えているのか、『いた』ことを覚えているのかどちらですか」という質問をされ、輿掛は「『いた』ことと、すぐ自分の部屋に帰ったことは覚えている」旨を答えた。
検察側立証
第2回公判は1982年(昭和57年)6月7日に行われた。
前述の近藤裁判長から輿掛への質問に続いて検察側の立証に入り、翌1983年(昭和58年)1月13日の第10回公判までをかけて、みどり荘の住民や捜査にあたった警察官、鑑定にあたった科警研や大分県警科学捜査研究所の技官などの証人尋問が行われた。
102号室の住民は、第3回公判で、事件直後に202号室の風呂で水を流す音を聞いたと証言した。
その証言は細部に及び、
「2階からドタンバタンという音を聞いた。それは、男が女を追い掛け回すような音だった。そのあと静かになったので、2階に神経を集中していたが、ドアや窓、人が歩くような音は聞こえなかった」
「15分から20分くらいして、201号室か202号室の風呂で水を流す音を3回くらい聞いた。それは、人が中腰になって水をかぶっているような音だった」「水音は201号室か202号室か分からなかったが、その後、実験してもらった結果、202号室からだったことが分かった」
というものであった。
一方、201号室の住民は、事件直後に廊下で顔を合わせた際に輿掛から「こんばんは」と声を掛けられて殺人事件が起こったことを知らされているが、第3回公判で、その時の輿掛の様子について、起きたばかりのようだったものの特に変わった様子はなかったと話した。
また、輿掛から「何しよるか!」と声を掛けられて事情を聞いた巡査も、第4回公判で、輿掛は落ち着いた普通の態度だったと証言した。
第4回・第5回公判では取り調べにあたったT警部補が証言に立ち、事件直後の最初の事情聴取で確認した輿掛の首と手の傷について、
「その夜についた新しい傷だと判断した」
「傷について輿掛は嘘をついていると感じ、犯人ではないかと思った」
と証言したものの、
「それでは何故その場で写真を撮らず、捜査報告書に記載しなかったのか」
という弁護側の反対尋問に対して説得力のある答えを返すことができなかった。
なお、輿掛は、最初の事情聴取で傷を確認された際、T警部補はそれぞれについて「古い傷だな」と言い、それは同席していた捜査員も聞いているはずであると主張している。
続く第6回公判には、同棲していた当時の恋人が証人として呼ばれた。
彼女は、輿掛の逮捕当日に検事の前で「事件直後に電話を受けた母は、輿掛は焦った様子だったと言っていた。新聞で事件の内容を読み、輿掛が犯人ではないかと疑いを持った。心配になっておにぎりを持ってみどり荘に行くと、輿掛の首や手に見たことのない傷があり、ひっかき傷のような首の傷には血がにじんでいた。輿掛の言うことは信用できないと思った」という供述をしたとされていた。
しかし、公判では、弁護側の「犯人ではないかと疑っている相手におにぎりなんか作らないでしょう?」という質問に恋人は「そうです」と答え、供述調書の内容についても「本当は違います」とはっきりと否定した。
なお、輿掛と恋人は事件後も輿掛の逮捕まで交際を続けており、事件のあった1981年(昭和56年)の大晦日には恋人の母に「泊まっていきなさい」と言われて恋人の実家に泊まり、また、逮捕の前日も二人で友人宅に泊まっている。
さらに、第8回公判では、毛髪鑑定を行った科警研の技官に対する証人尋問が行われ、弁護側によって毛髪鑑定は個人識別の手段としては決定的ではないこと、基準もあいまいで判断は鑑定者に委ねられていることなどが指摘された。
検察側の立証は第10回公判での被害者の姉とともに遺体を発見した友人への証人尋問で終了したが、輿掛による犯行であると十分に立証されたとは言えない状況であった。
逆に、弁護側はここまでの審理に手ごたえを感じていた。
第10回公判で引き続き行われた弁護側の冒頭陳述では、これまでの審理で明らかになった犯人像と輿掛は結びつかないこと、事件直後の輿掛の態度や行動も犯人のものとは思えないこと、また「対照しうる指紋、掌紋、足跡もない」と指摘して、はっきりと無罪を主張した。
そして、翌第11回公判では、それまで同意・不同意の意見を留保していた輿掛の供述調書の証拠採用についてすべて不同意とし、供述調書は「身体的・精神的疲労と体毛遺留等の誤導によるもの」であり「犯行当時の記憶がない中で記憶に基づかずに、自己が犯行を犯したと推定あるいは想像したものにすぎない」として「自白」の任意性を争う姿勢を示した。
これによって、次回第12回公判では輿掛に対する被告人尋問が行われることになった。
古田弁護士によると、このころの輿掛は、何か一人で悶々と思い悩んでいる様子であったという。
「自白」の撤回
第12回・第13回公判
被告人尋問が行われる第12回公判の前日の1983年(昭和58年)3月9日、打合わせのために接見した古田弁護士に対して、輿掛は「実は、事件のあった時間は寝ていて、隣の部屋にいた記憶はない」と、これまでの「隣の部屋にいたことは覚えている」という供述とは異なる話を始めた。
古田弁護士としては半信半疑ではあったが、輿掛が強く主張するため、そこまで言うのであればと公判ではその通り話させることにした。
しかし、当時、徳田弁護士は医療事故に関する訴訟を複数抱えて多忙であったため、古田弁護士は、このような弁護方針の大幅な変更について徳田弁護士と打ち合わせをする時間も取れないまま公判を迎えることとなった。
3月10日の第12回公判では、古田弁護士が質問に立ち、輿掛の逮捕された時の状況から不利益供述に至るまでの経緯を質していった。
そして古田弁護士の「酒を飲んでいて眠ってしまって事件の時間帯の自分の記憶はないというのが本当のところなんですね」という最後の質問に対して、輿掛ははっきりと「はい」と答えた。
裁判長は驚いたように顔を上げたが、この回答に驚いたのは徳田弁護士も同じであった。
輿掛に隣の部屋にいたという記憶はあるということは、イソミタール面接での供述を軸に無罪を求めるという弁護方針の大前提であったことに加えて、第1回・第2回公判で輿掛自身が裁判長に対しても認めたことであり、ここで急に供述が変わることは裁判官に不信感を抱かせることになるのではないかと徳田弁護士は怖れた。
徳田弁護士は、古田弁護士の質問が終わったあとに裁判長から「何かありませんか」と促されて質問に立った。
裁判官に弁護団内の不一致を悟られないよう別の質問から入り、そのあとでさりげなく話を移して「この裁判の一番初めにも言ったように、あなたが覚えている範囲では、気がついたら隣の部屋にいて、自分の足元に女の人が横たわっていたということは覚えていたわけですね」と質問した。
輿掛はしばし返答をためらったあとに、小さく「はい」と答えた。
徳田弁護士は畳み掛けるように「そうですね」と確認したが、輿掛はゆっくりと頷いただけだった。
徳田弁護士はさらに「隣の部屋に立っていたという、そこは覚えていたわけでしょう」と問いつめたが、輿掛の返答は「はっきりわからんかったです」であった。
この回答に徳田弁護士は慌てて「この法廷でも認めているから、そういう記憶はあったわけでしょう」と声を荒らげて質問し、輿掛も「はい」と答えた。
このやりとりで、徳田弁護士としては何とかイソミタール面接での供述に戻した形となった。
同年4月21日の第13回公判は、輿掛に対する検察側の反対尋問であったが、多忙の徳田弁護士が古田弁護士や輿掛と打合わせできたのは、公判直前の裁判所内でのわずか15分だけであった。
その場も「記憶の通りに話せばいい」とありきたりなアドバイスを与えただけで終わった。
第13回公判では、検察側は当然輿掛の供述の変遷を追及したが、輿掛は第13回公判でははっきりと「隣の部屋にいた記憶はない」と不利益供述を完全に撤回し、以降、一貫して無実を主張するようになる。
弁護団としても、これ以降、捜査段階から公判初期の輿掛の不利益供述は「偽計による虚偽自白」であるとして無罪を求める弁護方針に転換した。
これに対して、検察側は直ちに取り調べにあたったT・H両警部補を証人として申請した。
「自白」に至る経緯
第12回・第13回公判やその後に語った輿掛の言葉によれば、不利益供述に至る過程は以下のようなものであった。
ちなみに、逮捕から「自白」に至るまでの取り調べおよび食事の状況は下表の通りであった。
取り調べ時間 食事
1月14日
逮捕当日 15:30 – 23:00
昼:×
夕:×
1月15日 9:30 – 21:35
朝:牛乳
昼:弁当
夕:×
1月16日 8:50 – 22:20
朝:×
昼:×
夕:×
1月17日 9:50 – 22:50
朝:パン・牛乳
昼:×
夕:×
1月18日
「自白」
朝:×
逮捕当日、窓側の席に座らされ、換気のためと称して窓を開けられて1月の寒風にさらされる状態で取り調べを受け、風邪をひいてしまった。
薬が欲しいと言ったが拒絶され、医者にも診せてもらえず、長時間の取り調べが連日続いた。
台所に横たわる被害者の遺体の写真を見せられ、「お前がこうしたんだ」「どうやって入って、どうやって殺したんだ」と追及されたこともあった。
何度「酒を飲んで寝ていた」と言っても取り合ってもらえず、自衛隊時代の飲酒運転での事故や年末の暴行事件などを例に出されて
「自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが、輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていた」
「高校時代の恋人も、酒を飲んで首を絞められるようにセックスされたが輿掛は翌日覚えていなかったことがあったと言っている」
「新聞に載っている以外に203号室からはお前の指紋も毛髪も出ている」
「お前は酔っ払って覚えていないだけで隣の部屋へ行っているのは間違いないんだ」
などと言われ、次第に自分でもそうなのかもしれないと思うようになっていった。
さらに、風邪で食欲もなく意識も朦朧とする中で、「家族もどうなっているかわからんぞ」と言われ、逮捕当日に母親に会えないまま連行されたことや連行時に押し寄せる報道陣に恐怖を感じたことを思い出し、家族のことが心配になった。
1月18日の朝、家族に会わせてほしいと涙ながらに懇願すると、「分かった。しかし、お前の言うことを聞いてやるから、お前もこっちの言うことを聞け」と言われた。
そしてまた「どうやって入って、どうやって殺したんだ」と聞かれて答えられずにいると、「じゃあ、どうやって出たんだ」と聞かれ、とっさに「玄関から出た」と答えてしまった。
その発言をもとに「玄関から出て部屋に戻った」「自分がやったことは間違いありません」という供述調書を作られて署名・指印させられた。
その日の午後に母と長姉との面会を許され、医師の診察を受けて薬をもらえた。
裁判が始まり、T警部補らが「新しい傷だった」など嘘ばかり言うので腹が立ったが、そのたびに弁護人の席に目をやると、いつも手前側に座る徳田弁護士と目が合って頷いてくれるので、「先生たちは分かってくれている」とだんだんと信頼できるようになった。
また、T警部補らの証言の矛盾や科警研の毛髪鑑定のあいまいさを追及する両弁護士を頼もしく感じるようになった。
そして、第10回公判で徳田弁護士は、警察があったと言った指紋もないという。
指紋も毛髪も出ていると言われていたが、そうではないとすると、警察に騙されて行ったような気になっていただけで、やはり本当は隣の部屋には行っていなかったんだと思うようになった。
ただ、裁判の初めに「隣の部屋にいた記憶はある」と言ってしまったので、今さらそうではないと言ってもいいのだろうかとしばらく悩んだ。
そして、第12回の公判の前に古田弁護士に自分としての事実を話した。
しかし公判では、いつも温厚な徳田弁護士にいつもと違う強い口調で「隣の部屋にいたことは覚えているんでしょう?」と問われたため困惑したものの、徳田先生には何か考えがあってのことだろうと思ったので「はい」と答えた。
しかし、第13回公判の前に両弁護士から「記憶の通り話せばいい」と言われたので、第13回公判からは自信を持って記憶の通りを話すことにした。
任意性・信用性に関する審理
T・H両警部補に対する証人尋問は、1983年(昭和58年)6月20日の第14回公判と同年7月4日の第15回公判で行われた。
T警部補によれば、「自白」した当日1982年(昭和57年)1月18日の取り調べの状況は、「取り調べを始めて1時間ほど経ったとき、輿掛が母や姉に会いたいと言い出した。それに対して、分かったが、自分の覚えていることを話しなさいと応じ、何度もどこから入ったのか追及したが、輿掛は何も答えなかった。しかし、どこから出たのかと聞くと、玄関から出たと答えた。記憶にあるのは台所に立っていたところからで、それ以前のことは覚えていないということだった。そして、玄関から出て自分の部屋に帰って風呂場で顔を洗ったところまで話すと、母に合わせて欲しいと涙を流し声をあげて泣き始めた」ということであった。
また、指紋については、事件現場からは輿掛の指紋は検出されていないこと、そして、指紋の件は取り調べの中で輿掛に何も告げていないと証言した。
1983年(昭和58年)7月21日の第16回公判には、風邪を引いた輿掛を診察した医師が証人に呼ばれ、診察したのが輿掛の「自白」前か後かが争われた。
輿掛によれば、「自白」した後の1982年(昭和57年)1月18日の午後に初めて医師に診察されたということであったが、医師は「自白」前の同年1月15日に診察したと証言し、カルテにも1月15日の21時30分に診察・投薬と記載されていた。
しかし、H警部補が作成した報告書では、この日は21時35分まで取り調べを行い、そのあとに診察を依頼したとされており、また、留置人出入簿には21時35分入房と記載されていた。
1983年(昭和58年)9月1日の第17回公判では、弁護側が「自白」当時の輿掛の心身の状態を立証するとして、「自白」直後に面会した輿掛の母と長姉を出廷させた。
その時の輿掛の様子について、母は「色はまっ黒というか、あんな色はないです。目はギョロギョロして、私たちがものを言っても口をパクパクさせるだけで言葉にはならなくて、涙をボロボロ流すだけでした。ほおはこけて亡霊みたいでした」と述べ、長姉は「げっそりして疲れ果てて、私達に言うんですが、声にならなくて、あっあっという感じで、もういいわと言ったらただ泣くだけで、私達も涙がポロポロ出てきまして何も言えなかったです」と証言した。
その後、イソミタール面接を行った医師に対する尋問や3回を重ねた被告人質問などを挟んで、翌1984年(昭和59年)12月17日の第23回公判には、第3回公判で証言した102号室の住民が再び呼ばれた。
ここでは弁護側は、「2階の水音を聞いただけで人が中腰で水をかぶっている音だと分かったということ」「風呂の水音を聞いたというのと同じ時間帯の205号室の住民が木のツッカケで外階段を下りるカンカンという大きな音を聞いていないこと」など、102号室の住民の証言の不自然な点を指摘した。
検察側補充立証
1985年(昭和60年)1月21日の第24回公判から同年8月26日の第29回公判にかけて、検察側は大量の証拠を追加で申請して補充立証を求めた。
検察側の補充立証の柱は、主に、102号室の住民が聞いた水音について、イソミタール面接について、輿掛の傷について、の3点であった。
検察は、裁判所の許可を得た上で同年1月14日に密かに検証実験を行っていた。
この検証で、202号室の風呂で水を流す音が102号室の住民に聞こえることを確認し、調書を証拠として申請した。
弁護側は、検証のためとはいえ起訴後の強制捜査は違法であり証拠能力はないと主張したが、裁判所はこの検証調書を証拠として採用した。
また、「行っただけで殺していない」というイソミタール面接での輿掛の供述については、同年12月9日の第31回公判に精神科医で責任能力についての権威とされる東京医科歯科大学の中田修教授を証人として招いた。
鑑定書自体にも「麻酔下の発言の信用性は疑問視され、今日ではほとんど用いられないようである」「今回の発言は、自分の犯行を否認するために最近思いついた創作である可能性は否定できない」と記載されているが、中田教授も、本人が強く言いたくないと思っていることは言わないこともあるとしてイソミタール面接での供述には信用性がないと証言した。
輿掛の首や左手甲の傷については、同年1月10日に検察が独自に九州大学の牧角三郎名誉教授に鑑定を依頼し、8月26日の第29回公判に鑑定書を提出した。10月7日の第30回公判に出廷した牧角名誉教授は、検察側の主尋問に対して「T警部補が確認した輿掛の首の傷は発赤反応であり、6人に繰り返し何度も実験した結果、これは受傷後2時間から3時間以内に見られるものである」として、犯行時に被害者の爪によって生成された可能性があるという内容を証言した。
しかし、弁護側の反対尋問で、T警部補が傷を確認したのは事件発生の翌朝6月28日4時30分ころから6時30分ころまでの事情聴取の終わりころであり、鑑定書通りその2時間か3時間前にできた傷であるとすると、輿掛の傷は6月28日0時前後とされる犯行時刻にできた傷ではないことになると指摘されると、牧角名誉教授は絶句し、慌てて「個人差がある」と言葉を濁した。
さらに、1986年(昭和61年)4月21日の第33回公判では、T警部補が作成した捜査本部事件情報報告書を証拠として提出した。
これは捜査員から捜査本部にあてた内部報告であり、そこには、事件直後の事情聴取の際に確認した左手甲の傷について「この傷は赤身が出て表面は薄く幕〔ママ〕でおおわれている」と書き込みがされていた。
T警部補を証人として行われた同年6月30日の第37回公判で、弁護側は、事件後4年も経って急にこのような文書が出てきたこと、このような重要な内容が正式な捜査報告書に記載されていないことなど、この報告書の不自然さを指摘した。
しかし、裁判所は、同年7月28日の第39回公判において、署名も捺印もないメモ程度に過ぎないとする弁護側の強硬な反対を押し切って、この報告書を証拠として採用した。
弁護側は、裁判所のこうした検察寄りの訴訟指揮に対して不信感を募らせていった。
結審
大分地裁での第1審は、1987年(昭和62年)7月13日の第44回公判での被告人質問をもって証拠調べを終えた。
検察の論告求刑は、同年9月14日の第45回公判で行われることに決まったが、検察側の準備が間に合わず、12月24日の第46回公判に大幅に延期された。
検察は、論告で「被害者が一人で帰宅したことを察知するとともに、日頃かわいい女の子と思っていた被害者が廊下に出て風呂の口火に点火する物音などを聞き、性的想像をたくましくしてますます性的衝動を強め、それを抑制できないまま本件強姦の犯行に及んだものと認められる」として極悪非道な犯行と断じ、また、輿掛の公判での対応も「狡猾な態度に終始した」として、無期懲役を求刑した。
弁護側は、翌1988年(昭和63年)2月1日の第47回公判で最終弁論を行い[、科警研の毛髪鑑定は信用性に欠けること、捜査段階での「自白」は過酷な取り調べで心身ともに疲弊していた輿掛に対して指紋や体毛が出ているといった虚偽の事実を告げた上で家族との面会と引き換えに強制された虚偽自白であり任意性・信用性がないこと、102号室の住民の証言は202号室の風呂で水を使う音を聞いたとしながら205号室の住民がトイレの水を流す音や周囲の誰もが聞いている木のツッカケで外階段を下りるカンカンという大きな音を聞いていないなど不自然であること、被害者が犯人に噛みついて吐き出したと思われる血液の混じった唾液があったにもかかわらず輿掛にはそのような咬傷がなかったこと、巡査に自分から声を掛けたり201号室の住民に事件のことを伝えるなど犯人と思えない行動をとっていること、被害者は生理中であったにもかかわらず輿掛の衣類等から被害者の血液が発見されていないことなど、検察側の主張に反論して無罪を主張した。
これをもって第1審は結審し、判決は同年4月25日に言い渡されることが決まった。
閉廷後、弁護団のもとには弁護側の最終弁論を傍聴していた全国紙の記者が複数集まり、口々に「無罪になりますね」と声をかけた。
審理再開
1988年(昭和63年)4月25日に予定されていた判決言い渡しは、直前になって6月27日に延期となった。
そして迎えた6月27日の第48回公判でも判決は下されず、職権により審理を再開し、輿掛が事件当夜テレビで見たという映画のビデオ検証が行われることが決まった。
ただし、輿掛のこの供述については、のちに「他のテレビで見た場面と混同していたことも考えられますから、もしかしたら私の間違いかもしれません」と言ったとする供述調書も作成されている。
8月22日の第49回公判でビデオ検証が行われた。
輿掛が見たという映画は、事件当夜の1981年(昭和56年)6月26日23時50分ころからテレビ大分が放映した『荒鷲の要塞』であった。
検証の結果、輿掛が覚えていると言った「酒場やドイツの軍人が螺旋階段を下りてくる場面」は、日が替わった6月27日0時12分23秒から同13分36秒の間に放映されていたことが確認された。
ビデオ検証が終わると、裁判所は改めて証拠調べの終了を宣言し、同年9月26日の第50回公判で検察側論告、10月24日の第51回公判で弁護側最終弁論が行われることになった。
弁護側は再度の最終弁論で、ビデオ検証の結果を、この場面は最初のクライマックスといえる場面で「他のテレビで見た場面と混同」することはありえず、輿掛は犯行時間に自室にいたこと、すなわち輿掛が犯人ではないことを示すものであると主張した。
判決は翌1989年(昭和64年)3月9日に言い渡されることになった。
一審判決
1989年(平成元年)3月8日、判決公判を前に古田・徳田両弁護士は輿掛と接見し、「良い結果が出てもはしゃがないように、また悪い結果が出ても取り乱さないように」と告げた。
これまでの公判の審理から無罪判決を確信していた輿掛は、「先生たちは万が一のことも思ってくれている」と受け止めた。
弁護団も無罪判決に自信を持っていたが、裁判を通じて一貫して検察寄りだったと感じる裁判所の訴訟指揮から一抹の不安も感じていた。
公判の直前、大分地裁の弁護士控室で、判決後の記者会見について「無罪判決のコメントは用意したが、有罪判決であった場合は自信がない」という古田弁護士に対して、徳田弁護士は「無罪のときは古田弁護士がやればいい。有罪の場合には僕がやろう」と応じた。
3月9日13時30分、第52回となる判決公判が開廷。
寺坂博裁判長が言い渡した判決の主文は「被告人を無期懲役に処する」であった。
寺坂裁判長は、判決理由の中で、有罪認定の柱として輿掛の「自白」や科警研の毛髪鑑定などを挙げ、審理で争点となった点については以下のように判じた。
毛髪鑑定
輿掛の逮捕の決め手となった科警研の毛髪鑑定について、弁護側は毛髪鑑定では決定的な個人識別はできず判定基準もあいまいであると指摘して必ずしも科学的とはいえないと主張したが、判決は、「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは、毛先端の形状、色調、長さ、毛幹部の太さ、髄質の形状などほぼすべての特徴点で類似しているし、本件形態学的検査は、多岐にわたる項目について、豊かな経験と高度の専門的知識を有する毛髪鑑定者が、肉眼ばかりでなく顕微鏡まで使って入念に検査している」として、その信用性を肯定した。
「自白」の任意性・信用性
弁護側は、捜査段階での「自白」には疲弊した輿掛に虚偽の事実を告げ家族との面会と引き換えに強制されたもので任意性がないと主張したが、判決は、「捜査官が母親らに会えるようにしてやるから記憶にあることを全部話すようにと説得したことが被告人に与える心理的な影響は通常の場合より大きかった」と認めつつも、「この点を充分に考慮しても前記の任意性の判断の結論には影響がない」として任意性を認め、風邪を引いた輿掛を医師に診察させたのが「自白」の前か後かについても、「カルテか、甲一四一号証または留置人出入簿のどれかの時間の記載に正確性を欠くものがあると考えられ、そうすれば右の矛盾は十分に説明がつくもので、その故に被告人が同日夜(医師名)医師の診察を受けた事実を否定してしまわなければならないものではない」として弁護側の主張を退けた。
信用性についても、弁護側は、犯行についての供述がなく秘密の暴露も迫真性もないと主張したが、判決は、「一方で不利益供述に及びながら他方で本件の犯行と直接的に結びついてしまうような事柄を具体的に供述することを避けようとする態度がうかがわれるから、被告人の供述に具体性や迫真性がないことは被告人の供述の信用性を認めるについて大きな妨げにはならない」と弁護側の主張を退けた上で、「公判になってからも第一回公判の被告事件に対する陳述の際に自分が被害者を殺害したことは記憶がないのではっきりしないが、二〇三号室に立っていたことは覚えている旨述べ、第二回公判において更に念を押して裁判長から右の陳述の趣旨を釈明された際にも同旨の供述をし、第一二回公判でも供述が幾分不明確になってはいるものの結局二〇三号室にいたことを認めて」いるとして信用性を認めた。
また、第13回公判以降の「自白」の撤回については、「弁護人は被告人の供述が第一三回公判以後変遷したのは、被告人が第一〇回公判の弁護人の『指紋、掌紋、足跡については対照し得るものは検出されず、毛髪についても被告人のものと特定し得るものは一本も検出されていない』との冒頭陳述を聞いたことが動機となっていると主張するが、そうだとすると冒頭陳述後の第一二回公判廷までの公判でそれまでの供述を覆さなかったのが理解できない」とし、「第一三回公判ではそれを否定しながらも、一方でそれまで認めていたのはそう思えばいたような気にもなっていたからであるなどと不明確な供述もしているので、これらの事情も捜査段階における被告人の不利益供述の信用性を裏付けるに足るものである」と認定した。
首・左手甲の傷
事件後に見られたとされる輿掛の傷について、弁護側は、事件直後の写真がなく新しい傷だったか古い傷だったか判断できない、警察が写真を撮らなかったことは保存すべき証拠がなかったということであると主張したが、判決は、T警部補が最も慎重かつ綿密に観察しているとして同警部補の証言を採用し、首の傷については牧角鑑定から犯行時に被害者が抵抗したことで生じた傷の可能性が高いと判断した。
また、左手甲の傷についても、「先端が約二ミリメートル大」のものによる傷でありビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が最も高いとした鑑定結果をもとに、この傷も犯行時に被害者の抵抗によって生じた可能性が強いと判断した。
102号室の住民の供述
102号室の住民が犯行時間直後に202号室の風呂で水を流す音を聞いたという証言については、「後日判明し、知りえた事実や想像を事件当時の自己の見聞事実・記憶に付け加えて供述する傾向にあることがうかがわれるので、その供述を全面的には信用しにくい」としつつも、「(102号室の住民)が聞いたという水の音が本件犯行に及んだ被告人が自分の身体を洗う音であったとすれば、犯行の直後であると考えるのが自然であり、右のカンカンという音と近接した時間帯であると思われるから、一方の音を聞いて、かなり大きかったと思われる他方の音を聞いていないというのは、確かに不自然の感を免れない。しかしながら、人の注意力が一方だけに片寄ってしまって事後的に考えると当然気付いているはずの物事の生起に気付いていなかったということは日常よく経験するところであり、それが説明の余地のないほど不自然なことであるとまでは言えない」としてその証言を採用した。
被告人が犯人とすると不自然な事象
事件現場に被害者が加害者に噛みついて吐き出したと思われる血液の混じった唾液が残されているにもかかわらず輿掛の身体に咬傷がなかったことについて、「被害者が犯人の身体に生じた損傷から出た血液を必死に抵抗して犯人ともつれているうちに何かのはずみで口にすることもあり、それを唾液とともに吐き出した可能性も否定できないし、被害者が犯人に噛みついたものとしても、本件の犯行直後に捜査官が咬傷の存在を意識し被告人の身体全体を綿密に検査したことはないのであるから被告人の身体から咬傷が発見されていないからといってそれが絶対になかったということはできない」と判断した。
また、巡査に自分から声を掛けたり201号室の住民に事件のことを伝えるなど犯人とは思えない行動をとっていることについては、
「部屋には電灯をつけたままにしてあるのに返事をしなかったことから疑惑を持たれることをおそれ、この上は自分の方から声をかけた方がよいと考えたことも、犯人のとる行為として絶対に考えられないとまでは言い切れない。また、(201号室の住民)に自分の方から先に挨拶したり、事件のことを話したりしたのも、それと同様に自分が犯人として疑われないための行動と考えることも出来ないわけではない」
「犯人であれば自室に逃げ帰った後電灯もテレビも消して眠っていることを装う方が自然であることは弁護人主張のとおりであるけれども、それまでつけていた電灯などを犯行直後に消したのを見られれば自己に嫌疑の目が向けられると考えることも一面の犯罪者心理であろうと考えられるから、この点も被告人が本件の犯人であるとするについて決定的に矛盾する事実であると言うことはできない」とした。
さらに、被害者は生理中であったにもかかわらず輿掛の衣類等から被害者の血液が発見されていないことについても、
「本件の犯行後(輿掛の当時の恋人)が実家から帰ってくるまでの間に被告人が自室に一人でいた時間は相当あり」
「被害者が発見された直後に(輿掛の当時の恋人)の実家へ電話を掛けるために外出するなどしているものであるから、被告人が血液のついた下着などを処分する余裕は十分あったと認められ、いずれの主張も被告人を犯人とする場合に説明不可能な事情ではない」
として弁護側の主張を退けた。
そして「被告人の強制捜査段階及び第一回、第二回、第一二回公判における二〇三号室に立っていたとの供述が信用できるもので、それによれば被告人は本件犯行のあったすぐ後に被害者が倒れていた二〇三号室の板の間に立っており、その後二〇二号室に戻り、風呂場で身体を洗い、テレビを見ていたことが認められる」
「他に被告人が二〇三号室へ赴く合理的な理由があったことは伺えないから、それにより被告人が本件の犯人である可能性が高い」
と認定し、
「未だ遺族に対し、何らの慰謝の措置を講じていないことや、犯行を否認し犯行に対する反省悔悟の情を示していないこと」をあげて「無期懲役に処することはやむを得ない」と結論づけた。
判決後、大分地裁の面会室で輿掛との面会を終えた両弁護士は大分地裁の弁護士控室で記者会見に臨んだ。
記者会見で徳田弁護士は、「被告人が無実であることを示す数々の証拠に目をつぶった不当な判決である」と述べ、記者団からの「どんな証拠があるというのですか」という質問に「いくらでもあります。私達の弁論要旨を読んで下さい」と声を荒げた。
輿掛と弁護団はただちに福岡高裁に控訴した。


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