氷見事件

2002年04月15日月曜日

氷見事件(ひみじけん)とは、2002年3月13日に富山県で発生した婦女暴行未遂容疑を始め2件の容疑で、2度にわたって逮捕された男性が懲役3年の刑に服した後に、本2件を含めた一連の暴行事件の真犯人が見つかった冤罪事件。
富山事件などとも呼ばれる。


事件の経過
2002年4月15日、同年3月13日に当時16歳の少女を強姦しようとしたと、タクシー運転手が強姦未遂容疑で富山県警察氷見警察署に逮捕、5月には別の少女への強姦容疑により再逮捕された。
逮捕のきっかけは容疑者が少女らの証言する犯人と似ていたこととされる。
任意で行われた取調べにも関わらず、4月8日以降断続的に3日間、朝から晩まで長時間にわたって行われ、ついに4月15日の3回目の取り調べで、既に何が何だか分からなくなり疲れ切っていた被疑者に対し、「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという、取調官の噓による誤導により、絶望させ容疑を認め、自白したとして逮捕された。
逮捕状は既に準備されていた。
逮捕を受け、自白の裏付け捜査を行い、捜査員が氷見警察署に提出した事件報告書には逮捕前の段階で、被害者の目撃証言の星のマークの運動靴が被疑者の自動車の後部座席付近に有ったと記されている。
被疑者は、取調官に「はい」か「うん」しか言うなと言われ、おかしいとか怖くて何も言えなかったという。
自宅の捜索では星のマークの運動靴は発見されず、取調官が「捨てたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、警察は彼が捨てたと供述した場所を捜索したが、やはり運動靴は発見されなかった。
取調官が「燃やしたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、運動靴は自宅で燃やしたことにされた。
被害者目撃証言ではサバイバルナイフを突きつけられ、チェーンで手を縛られたとされたが、取調官は被害者の記憶違いとして被疑者の自宅の捜索で出た果物ナイフとビニールひもを証拠とした。
被害者自宅の見取り図も取調官が被疑者の後ろから手をとり書かせた。
現場に残っていた体液についても、被疑者の血液型と一致しない可能性を認めながら、科学捜査研究所の担当者は氷見警察署署長から依頼がなかったので再鑑定しなかった。
この逮捕には、自白に「秘密の暴露が全くない」こと、犯行当時の明白なアリバイ(犯行時刻とされた時間帯に自宅から知人に電話をかけたというNTTの通話記録など)が存在したこと、現場証拠である足跡が28センチという巨大な足跡なのに対し、容疑者の足が小さい24.5センチであることなどから、立件は無理ではないかとの声が氷見警察署内にさえもあった。
それにも関わらず捜査は強行され、富山地方検察庁が立件した
(真犯人判明後の国家賠償訴訟における2014年2月17日の富山地裁での第24回口頭弁論の取調官の証人尋問で、被害者の自宅の見取り図については容疑者に確認しながら取調官が見本を書き清書させたと取調官は証言した。
凶器、被害者の縛り方など容疑者が知り得ない事柄には取調官が選択肢を示し供述を得ていたことも認めた。
同年4月21日の富山地裁での第25回口頭弁論で事件当時の検察官は、通話記録について見たが精査しなかったと弁明した。
足跡のサイズの差についても、バスケットシューズは大きめを履くこともあり矛盾するとは思わなかったと弁明した)。
裁判では弁護士も「裁判官から何を言われても認める方向で」「控訴しても無駄」と犯人扱いされ、なおかつ、実兄姉より集めた約250万円を被害者二人に被疑者本人の承諾を受けないまま勝手に「和解金」として支払うなど、「弁護」とは程遠い勝手な行動を行ったため、被疑者本人は孤立無援な状態であった。
富山地裁における裁判の席でも、柳原は容疑を認め、結局自白と少女らの証言が重要視され有罪判決が下り同年11月に懲役3年が確定。
柳原は刑に服し2005年1月に出所した。
被疑者逮捕後も、強姦事件が起き、被害者の証言で共通していたのは、強姦後「100を数えるまで動くな」と逃げる時間稼ぎがされていたことであった。
似たような事件が発生しながらも、富山県警は捜査を行わなかった。
真犯人の男は後の服役中に、富山県警は被疑者が犯人ではないと分かっていたが、それを隠蔽した、と報道機関への手紙で記している。
真犯人判明後
出所した後の2006年11月、別の婦女暴行事件で鳥取県警察に逮捕された男が自分が真犯人である旨を自供(真犯人は被疑者が起訴・有罪とされた2件を含めた14件の婦女暴行事件で起訴され、懲役25年の判決が下された)。
2007年1月17日に被疑者の親族へ経緯を説明し富山県警察が謝罪、1月19日に記者会見で事実が判明した。
これを受けて被疑者は、無罪判決を求める再審請求を富山地裁に行った。
また、1月29日に富山地検の検事正が彼に直接謝罪した。
富山県警が冤罪事件について謝罪したとされる1月23日夜の翌日、24日昼に、彼は富山地検に呼び出され、「当時の取り調べ捜査官、担当検事を恨んでいません」などという内容の調書を意思に反して作成させられた上、彼が知らないはずの事件の詳細についての自白書類が富山県警により捏造され、署名・指印させられたことが判明している。
再審の論告公判は8月22日に行われ、弁護側は無罪を求刑し、2007年10月10日に無罪判決が言い渡された。
また検察側が控訴しなかったため判決はそのまま確定した。
無罪となった彼は真犯人発覚後にマスコミのインタビューに答え、尋問した刑事から「身内が間違いないと認めている」と告げられ弁明しても聞いてもらえず、罪を認めざるを得ない状況に陥ったと答えている。
また、同意すること以外は意見を述べることを刑事から禁じられた上で、刑事の言うことが事実だという念書を書かされ署名させられていたとも告白している。
再審では尋問した取調官の証人尋問が却下されている。
藤田敏裁判長が「ただ単に無罪判決を出す手続きにすぎない」と理由を述べたためで、この発言に対し、「本気で真相を究明し、反省する気があるのか」という疑問や非難が出た。
さらに判決公判でも謝罪は裁判所側からは一切行われておらず、判決中述べた裁判官のあまりにも他人事な発言に彼は「むかついた」と裁判長に対し怒りを露わにした。
無罪判決が確定したものの、取調べをした警察官などの証人尋問および処分が実施されていないなど冤罪事件が発生した真実が解明されていないとして、彼は2009年5月14日に国家賠償訴訟を提訴した。2015年4月に富山地裁は、富山県警察の捜査の違法性を認め、県に1966万円の支払いを命じる判決を言い渡し確定した。
その後
他の冤罪事件の被害者たちも同様の経験を証言をしていることから、このような方法は冤罪を生み出す手法として時代や場所を選ばずに行われている方法であるとも指摘される。
2007年6月6日には、日本弁護士連合会主催で「えん罪を生み出す取調べの実態」というシンポジウムが緊急に開かれている。
日弁連側は取調べを録画・録音(「可視化」)する事でこのような事態を防ぐべしと主張している。
当時の富山県警安村隆司本部長は「結果においては誤認逮捕になりましたけれども、当時の捜査幹部の指揮あるいは捜査員の捜査手法、それを一つ一つをあげつらって捜査の懈怠があった、あるいは、そこに捜査のミスがあったという事で処分に該当するものだというふうに判断できるのか、どうかと言う事になると、当時の捜査状況をつぶさに検証した立場からして(処分を)ちゅうちょせざるを得ない。」として富山県警は誰一人処分されなかった。
さらに、長勢甚遠法務大臣(当時)が再審前の2007年1月26日に彼に対し謝罪した際、自白の強要については違法性が無いと述べ、当時の捜査員に対して処分は行わないことを決定している。
彼は出所後、地元富山県で再就職活動をしたが25社で不採用になり、2009年に国家賠償訴訟を提訴したことにより、兄、姉からこれ以上、家の姓を汚すなと兄、姉とは断絶状態となった。
彼は、取調べで受けた威嚇のPTSDで就職をドクターストップされ、2年余り服役した補償として国から約1000万円を受け取ったが、生活費や弁護士費用で底を尽き、都内杉並区在住で生活保護を受けている。
警察・検察の捜査機関が「カメラがあると容疑者が話しにくくなり真実が見えなくなる」と全面可視化に抵抗している事に対して、2014年4月22日に法務省法制審議会要請共同行動として、彼は他の冤罪被害者と全面可視化を要請した。


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